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<<   作成日時 : 2006/02/19 04:44   >>

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「朝日新聞って何考えてんの?」欄のコメント内容が少しずつ本筋からはズレてきた為、板を改めます。基本的には白片吟K氏の意見を受けて記す内容の為、文体を改めます。私は言語学を専門に学んだ人間ではありません。私は私教育機関で小・中学の国語講師をしていた人間であり、学問としての言語学には素人だと言えます。専門の方のご意見をお待ちしてます。また、「朝日新聞って何考えてんの?」コメント欄がそのテーマとはズレた内容で続いていることに違和を感じる方もおられるかと思いますが、これは、コメントが内田樹氏のブログ「内田樹の研究室」の2/13アップ「言葉の力」のコメント欄からこちらに流れてきた為です。そちらも読んで頂けるとより内容が鮮明になるかと思います。なお、内田さんのコメント欄で加藤さんがおっしゃっていることを、2/18にhrslclさんが内田さんのコメント欄上で非常に流麗かつ冷静な筆致でまとめておられます。この文章は質/品位ともに素晴らしい文章だと思います。

前回のコメントで話題に上っていた「言語観」をまとめなおすと以下のようになります。自分なりに(自分の文脈において)新旧の言語観をまとめてみました。なお、前コメント欄で私が書いたことと、これから書くことに若干の内容の違いが見られます。これは、自分なりにすべてを考え直し、書き直した結果、自分の立場/考えが定まってきた為です。言語観というテーマに限って言うと、基本的に内田さんに賛同する内容となりました。


【古い言語観】
言語運用の主体である「私」が自分の感情・思いを外に吐き出し、コミュニケーションをとる道具として言語を用いる。つまり、言葉は道具/手段である。(上田さんは「ソシュール以前的」「マルクス以前的」と表現しておられる)

【新しい言語観】
@何らかのコミュニケーションを言語という道具を使って行うとき、日本語を話す『私』は、当たり前だが日本という共同体内で理解される言語を話す。例えば「頭にくる」という表現を使うとき、我々は「え、何が頭にやって来たの?」という理解はしない。これはつまり、人はある言語を習得するときその言語を使用してきた共同体の全体的な世界観/世界理解の仕方を受け入れてきたことの証拠になる。裏返せば「ある人の言葉を聞けば、その育った共同体のイデオロギーや世界理解の仕方が推察できる」とも言えるだろう。例えば、「頭にくる」という表現で説明すると「日本という共同体では、怒りという感情は『頭』以外の部分からやってくるという理解の仕方をするらしい、そして日本語を話す人々は意識している/していないに関わらずそれを受け入れている」ように。そうなると、私は「あなた」の発する言語を聞いて「あなた」の人となりや世界観、世界理解の仕方、イデオロギー、さらに言えば「あなた」の育った共同体のイデオロギーや世界理解の仕方までをも判断できることになる。これが「言葉によって『あなた』が固定される」ということだと解釈できる。

A私たちは、常に「自分の中にある意思/感情」を言語という道具を意識的に用いて表現しようと努めているわけではない。次の単語が唇に浮かび、自分が何を言おうとしているのか把握していないにも関わらず、統辞的に正しいセンテンスが綴られる、つまり、無意識のレベルにおいて言語を用いることがある。ではこのとき、言語運用の主体はどこにいるのか?新しい言語観においては、それは「まさに私が今言語を運用しているという当の事実によって基礎づけられる」ことになる。強引に言い換えてしまえば、「私」が言葉の主人なのではない、むしろ「言葉」が私の主人なのだ、という一種逆説的な転換が起こるということだ。

B上記@Aをまとめると、私たちは言語を用いる際に「言語による固定化の危険性」を常に意識していないと危険だよ、ということになる。例えば、「あなた」がブログ上で特定の個人を批判する文章を書いたとする。すると、読者に「あなた=誹謗中傷するイヤな奴/日常生活でうっぷんが溜まってるんだろう」というような判断をされ、「あなた」はそのような人物として固定されることになってしまう。言い換えれば、「あなた」は「自分の思っている本当の『あなた』」として認識されるのではなく、言語を通して「あなた」の世界観/世界理解の仕方/イデオロギーを読み取られ、そのような理解で「あなた」が固定されることになる。今回の朝日新聞のコピーは、「言葉の力を恐れる」意識が見られないという点で上田さんは批判をしておられた。私は、それとは若干異なる立場(プロorアマという視点)から朝日新聞のコピーを批判したが、本質的には同一線上のものだと思う。


【私の立場】
@古い言語観について
「道具としての言葉があれば通じ合うことができる(通じ合った気になれる)」ことの意味は非常に大きいものがあり、この点で加藤さんのおっしゃる「ろう者の例」に同意します。また、教育初期(小・中学生)における言語教育は、道具としての言語をいかに自分の意識下に統率できるかが重要なテーマの一つであろうと思うので、ここから始めるべきだろうとも思います。つまり、自分の言いたいことを誤解無く相手に伝える仕方を身につけられるよう、また、学力や知力といった文化資本を正しく獲得することができるよう、各種の基礎訓練が必要だということですね。

A新しい言語観について
日常レベルにおいても、新しい言語観を意識しておくことは必要だと思いますが、特にメディアやネット等においては不可欠の言語観だと思います。例えば日常レベルにおいて、「私」は「あなた」を「言語」「振舞」「服装」「学歴」等、言語以外の様々な背景も考慮した上で判断しますが、やはり「彼女、かわいいんだけど、言葉きついんだよね」というように、「言語」は重要な判断基準のひとつとなります。それがメディアやネットを通すとどうなるか?当然、それらを通して運ばれてくる情報の多くは「言語」であり、しかもその言語を発した人間の様々な背景がさらに見えにくくなっています。「私」と「あなた」が対峙してコミュニケーションをとれない以上、判断のかなりの部分を言語に頼らざるを得ない。そうなると、「私が言葉の主人なのではない、言葉が私の主人なのだ」という事実がいよいよ現実味を帯びてくる。さらに言えば、読者は話者の言語を通して「話者の意思」「話者の存在する共同体のイデオロギー」等を理解するのであって、少なくとも話者は「言葉が自分を固定する/言葉は自分を縛る/言葉は自分を幽閉する檻である」ことを意識しておく必要がある。この言語観は特に、メディア全盛の現代、話者/情報発信者(TV局/新聞社など)の側に自戒の意味で意識されるべきことだと考えます。


【白片吟K氏の質問に対して】
@檻から出ることに何のメリットがあるのでしょうか?
上記「新しい言語観について」において記述した「言葉」=「自分を固定する/言葉は自分を縛る/自分を幽閉する檻である」という考えに基づくと、私たちは自身の発する言語によって判断され、「この人は○○な人だ」と定義されることになります。「言葉によって自分が判断される」ことを意識していない人は、「自分が発する言葉によって、自分がどう判断されるか」も同じように意識できていない。そうすると、檻から出ていない状態というのは、自分が発する言葉によって「自分が思っている本当の自分」とは違う仕方で自分が誤解されているかもしれないことに気づいていないことになります。これは哀しいディスコミュニケーション状態となるでしょう。よって、自分が檻に幽閉されていることを意識する/檻から出ようとする意識を持つことによって、より誤解のない情報伝達/コミュニケーションのあり方が生まれ得ることになります。
ただ、「別に、『コミュニケーションが健全に出来ている』と当人が幻想でも思えてさえいればそれで十分じゃん。それで幸せならいいじゃん」という考えも当然あり得ます。それは、各々が何に重きを置いているか、何に幸せの基準を置いているかの問題、広義に解釈すれば人生におけるスタンスの違いとも言え、どちらの立場もありだと思います。

A言葉の限界を自覚していなければその手のスランプは回避できるとも言えます。
その通りでしょうね。これも上記「人生におけるスタンスの違い」の問題に帰結すると思いますが、「スランプ」の定義が僕と白片吟K氏では違ったようです。僕は、言語世界で言うディスコミュニケーション状態を「スランプ」と言っていましたが、白片吟K氏は「言語による縛りから解き放たれたいのに、それが出来ないで落ち込む=スランプ」と捉えてらっしゃるようです。


【ブログ太郎さんの言葉に対して】
ブログ太郎さんは「残念なのは、内田さんの最初の投稿「言葉の力」を逸脱して、個人批判がなされている部分があることです。せっかくのすばらしいブログが、ある感情のために台無しになるかもしれません。ある部分の言葉のために、読後感に悲しさ、不快感が残りました。」と記述しておられます。私はこの意見に全面的に賛同します。
しかし、私は「悲しさ、不快感」を引き起こす発言を封じたり、または、封じようとする感情的な行動をしないつもりでいます。というのは、上記新しい言語観において記したように「言語=話者の人となりやイデオロギーを固定し、話者を判断するもの」であり、この判断は読者一人一人によって異なり得るものだからです。私はAというコメントに不快感を持つかもしれません。「あなた」はBというコメントに不快感を持つかもしれません。「彼/彼女」はCというコメントに不快感を持つかもしれません。どのように解釈するかは、結局読者の持つ「イデオロギー/背景/文脈」によってしか為されないものであり、それは永遠に一致を見ないかもしれません。しかし、内田さんが「常識の手柄」でおっしゃっているように、時間が経つ中で、ある発言が「常識的なもの」として固定していくと思います。その固定化のプロセスにおいて、そのブログの主権者たる私は恣意的な操作をしない、というのが私の立場です。つまり、私が操作してこのブログの「常識」を作り上げていくつもりはない、ということですね。何故ならば、私が今持っている意見/意思が正しいという保障は何処にも無く、「私」は未だ漂い続けている存在だからです。そのような意味において、ブログ太郎さんのような意見が書き込まれるのは非常に健全かつ当然のことだと思います。非常に有難い意見だと思います。



ということで、いろんな立場の方のご意見をお待ちしております。また、こんな内容のコメントが出来る板があれば良い、等のご意見もお待ちしております。ただ、上記で「発言を封じない」と書いたにも関わらず、早速矛盾するのですが(御免なさい)表現だけはちょっと気をつけて頂けると助かるなーというのが本音です。すみませんが、その点だけ気をつけて頂ければ、それ以外はまった制限なしです。

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檻の内外
朝日新聞のナイスなコピーのおかげで、今まで俺が訪れていたブログとは、性質の異なるブログを見る機会に恵まれた。 俺はさほど多くのブログを見ていない。基本的に法律家、時々マスコミ関係。扱うお題は時事問題中心。朝日新聞のコピーについて取り上げたブログはない。 だから、今回見たこちらのブログはなんつーか、知らない世界をかいま見たような気分だった。 管理人内田樹氏は本もたくさん出していて、俺より1周り以上年も上なのだが、ここはネットだ。知らないことにしておこうっと。 正直、なぜこんなに回りくどいも... ...続きを見る
ペンギンはブログを見ない
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内 容 ニックネーム/日時
言語「を使役するorに使役される」という問題はたしかに充分に興味深いのですが、実際にはどちらの言語観も必要な局面があり、現実的なのは「どちらの立場の理屈も知っておく」ということでしょう。しかし、そういった構造主義以降の言語観をある社会の中で明示的に啓蒙していくというミッションはちょっと無理だと思います。というか知識人による大衆(あるいは民衆)の全体的啓蒙というミッションの限界は既に明らかだと思います。私が近年考えている代替的ソリューションは、言葉の問題を離れますが、「世界を畏れる・敬う」という構えの積極的価値を認めていくというものです。
かとう
2006/02/19 08:53
即ちデカルト的なコギト概念を媒介とした世界観「俺様が感じているように俺様と世界は在る」を発展解消し、(ウチダ的意味での)他者への基本的な敬意や畏れを持ち続けることの大事さを称揚していこうという考え方です。まずはそこだけで良いと思います。
かとう
2006/02/19 08:57
ニューエントリーわざわざありがとうございます。
TBをこちらのエントリーに撃ち直しました。前のエントリーへのTBは削除して下さっても結構です。
また、関連記事になりますので、できればこの記事を私の記事にTBして下さい。

ワタシと、somewhere else not hereさんではスランプの定義が違うということについて、わかりやすく述べていただきましてありがとうございます。
ここからあとは、考え方の立場の違い、というレベルの話になりそうですね。
ワタシの考えでは、ディスコミュニケーションもそんな言われるほど悪いものではないし、なんでもかんでもコミュニケーション出来ていれば良しってもんでもない、ってとこです。

なお、余談ですが、2ちゃんになれたワタシには、ここや内田さんのブログ上でなされるコメント群はどれも大変おとなしいものに感じられます。
ブログ太郎さんのおっしゃる「読後感に悲しさ、不快感が残」る言葉、が具体的にどれを指すのか、本当にさっぱり分かりません。
もしワタシのだったらごめんなさい。
白片吟K氏
2006/02/19 11:26
「(道具としての言葉があれば)通じ合うことができる」と「通じ合った気になれる」は、全然別物ではないですか?前者は他者のいるコミュニケーションですが、後者は他者のいない独我論です。
そして前者の立場からすれば、言語の檻から出ることには意味(またはメリット)があることになるでしょうし、後者の立場からすれば、なんの意味もメリットもないことになるでしょう。
両者は互いに相容れない立場なので、「どちらの立場もありだと思います」などという中途半端な立場はそれをごまかすことになると思います。この場で結論が出るかどうかはともかく、どちらかが正しく、どちらかが間違っています。
igel
2006/02/19 17:21
檻から出ていない状態というのは、「自分が発する言葉によって自分が誤解されているかもしれない哀しいディスコミュニケーション状態」だけではありません。「自分が発する言葉によって自分が誤解しているという愚劣なディスコミュニケーション状態」も考えられます。
つまり、「自分が間違っていることに気づかない(気づけない)がゆえに、非常にたちの悪い仕方で他人に迷惑をかけている(ことがわかっていない)」というような状態です。
というか、この世の暴力(他者への危害)はほとんどすべて、そういう性質を持っているのではないでしょうか?自分が悪いと承知しつつ悪をはたらく人間はあまりいないでしょうし。(そういうことを内田さんもレヴィナスなどを参照しながら論じておられませんでしたか?)
したがって、ディスコミュニケーションは最低最悪です。
igel
2006/02/19 17:22
とはいえやっかいなことに、「私たちが考えることのできないものを、私たちは考えることはできない」ということも考えねばなりません。
つまり、内田さんがヴィトゲンシュタインを使って述べているところによれば、われわれが「言葉」を使ってものを考えている以上は、その限界にとらわれることは避けられず、「檻の外」にはおそらく原理的に出られません。誰であろうと絶対に。
それゆえ、「檻の内にいてはいけないにもかかわらず、檻の内にしかいることしかできないのをどうしたらよいのか?」 という、かなり解決困難な問いが提起されていることになります。
igel
2006/02/19 17:22
それに対して、「世界を畏れる・敬うという構えの積極的価値を認める」のは、一つのソリューションかもしれません。
しかし、もしそういうことができるとすれば、それは「言葉」を通じてのみではないかとも思います。それ以外にどんな方法があるでしょう?畏れ敬う気持ちは言葉でしか伝わらない(しかし言葉では伝わらないものでもある)、というようなことがあるからこそ、われわれは国語を学ぶのではないのですか?さもなくば一体学校はその科目で何を教えているのか、という気持ちにもなります。「離れる」どころか、それこそが「ウチダ的意味での言葉の問題」そのものです。
長々と迂回した議論がなされている割には、結局のところ同じ結論に落ち着くのではないか、と思えたもので、こうして長々と書き込んでしまいました。失礼しました。
igel
2006/02/19 17:23
通じ合える、あるいは通じ合った気になれるというのは、いずれも言語に対する構えの点で同じ「情報伝達の道具としての言語」であるということです。これらは独我論では成立しません。

世界を畏れ敬うソリューションの提示と受容は主に言語を通して成されますが、それは「言語を畏れる」とは別の論理構造を持ちます。「言語を畏れる」ソリューションは「世界を畏れる」よりも論理階層が高次になるので、そういうものを社会全体に啓蒙していくのは大変過ぎるということです。
かとう
2006/02/19 17:53
igelさん

仮に「通じ合うことができた」としても、それを客観的に証明する術はありません。
「それはお互いが『通じ合えた』という気になっただけではないのですか」と問われて、それを否定する証拠を出すことは出来ません。
従って「通じ合うことができる」と「通じ合った気になれる」は同じ現象を別の角度から見たものです。もちろんどちらも正しいです。
そーゆー意味でsomewhere else not hereさんは使ったのだと思います。
違ってたらゴメン。

ディスコミュニケーションは最低最悪だとは思いません。
たかだか誤解したり、誤解されたりしているだけの話じゃないですか。
誤解に基づいていても、モノゴトが上手く進んでいればいいと思います。

>自分が悪いと承知しつつ悪をはたらく人間はあまりいないでしょうし。
「悪い」の定義によると思います。
刑法では原則故意犯、つまり「悪いと承知しつつ悪をはたらく」場合のみが処罰されます。故意犯はすべて自分が悪いと承知しつつ悪をはたらく人間です。
「悪い」の定義があなたや内田さんと違うのでこうなります。
白片吟K氏
2006/02/19 19:25
>われわれが「言葉」を使ってものを考えている以上は、その限界にとらわれることは避けられず、「檻の外」にはおそらく原理的に出られません。誰であろうと絶対に。

出られます。ここはリクツ抜きでの言い切りになります。
「通じ合うことができた」と客観的に証明する術は無く、従って原理的に「通じ合う」状態があり得ないにもかかわらず、感覚的に「通じ合えた」ことを信じるのと同じことです。
出られるけど、出てはいけない。
というのが私の主張です。
それが「世界を畏れる・敬うという構え」と同じ事なのかどうかは分かりません。
白片吟K氏
2006/02/19 19:25
言葉が我々の限界を規定するかと問われたら、現時点で私は否と答えますけどね。認知科学や脳科学の知見を参照すると、そういう判断に傾いてしまいます。キム・ジェグォンの論文だったと思いますが、人間のコミュニケーションは全て物理現象として説明することが可能で、意味の世界はそれに付随して生起するという説を唱えた有名なものがありました。いわゆる付随説。つまり意味の世界が物理の世界に影響を与えうるかという議論で、これは内田さんのような単なる文芸とは違って実証ベースで展開されていて、意味(言葉はこちらのサブジャンル)は物理世界に影響を与えないという説も割と説得力がある。
かとう
2006/02/19 20:38
私は「言語を畏れる」とは言っていません。「言語によって畏れる」はずだ、と言っているのです。「言語は情報伝達の道具」なのでしょう?
世界を畏れるための言語以外の(高次の?)道具はありますか?またあるとすればそれは何ですか?

なお、「通じ合える」が言語に対する構えの点で「情報伝達の道具としての言語」であることには同意しますが、「通じ合った気になれる」という構えにおいては、情報伝達は成立していない(のでその道具もない)のではないですか?
igel
2006/02/20 00:01
>仮に「通じ合うことができた」としても、それを客観的に証明する術はありません。
>従って「通じ合うことができる」と「通じ合った気になれる」は同じ現象を別の角度から見たものです。もちろんどちらも正しいです。

たしかに、独我論の立場からはそういうことになります。だから、独我論者には「通じ合う」と「通じ合った気になる」の区別がつきません。

>出られます。ここはリクツ抜きでの言い切りになります。

その通り。独我論は基本的に理屈抜きの言い切り(モノローグ)です。

>「通じ合うことができた」と客観的に証明する術は無く、従って原理的に「通じ合う」状態があり得ないにもかかわらず、感覚的に「通じ合えた」ことを信じるのと同じことです。

その通り。独我論では「通じ合う」と「通じ合えたことを信じる」の区別がつかないので、恣意的に通じたり、信じたりすることになります。
igel
2006/02/20 00:05
>「悪い」の定義によると思います。

定義によるのなら、「道具としての言葉」があるのですから、曲折はあるでしょうが、どの場合にはどういう定義がふさわしいのか、最終的には通じ合えます。それがコミュニケーションというものでしょう。
しかし「定義によるので通じない」ということになれば、そこでは言葉が用いられていないことになります。少なくとも他者理解の「道具としての言葉」は。

そして、法律論議は無意味な脱線にすぎないと思いますが、たとえ故意犯であっても、「悪いと知りつつもそうする」だけの動機ないし理由があるのが普通です。「我ながらこんな悪いことはすべきでない」と思っているのに実行する人は少ないでしょう。それに対し、「他人には悪いと言われるかも知れないが、定義の問題だ。自分では良いと思っている」時に犯行が行われることは多いと思います。
igel
2006/02/20 00:07
igelさん

「独我論」だからダメ、と言い切られては反論の仕様がありませんね。
あなたと私は立場が違う、というだけのことです。
ただ、バートランド・ラッセルのいうことは、独我論の世界の話ですよ。個人の思考の限界の話で、そこに他者は登場してませんから。

また、私は「悪いの定義が違うから通じない」とは言っていません。
ディスコミュニケーションと「悪いことをする人」は関係ないということです。
人を刑罰によって処罰する場合にどの「悪い」の定義が適当かについては、刑法の本に書いてありますので、それを読めば誰でも理解しうるでしょう。それがコミュニケーションです。
内田さんやあなたは別に人を処罰するために「悪い」の定義をしたわけではないのですから、定義が違って当然です。

*脱線*
>「他人には悪いと言われるかも知れないが、定義の問題だ。自分では良いと思っている」
これが法律的には「確信犯」と呼ばれるものです。故意犯の一類型です。
動機ないし理由は故意犯の成立(つまり「悪い」の認定)には不要です。
白片吟K氏
2006/02/20 00:30
そうだ、igelさんにこちらから質問です。
ある状態が、「通じ合う」なのか「通じ合った気になる」だけなのか、どうやって区別しますか?
そしてそれをどのように第3者に証明しますか。
白片吟K氏
2006/02/20 01:01
『論理哲学論考』のヴィトゲンシュタインも「論理実証主義」だそうですよ。実証的な論理はこの世のあらゆる真理を明らかにできるか、というような哲学論議らしいので、彼もまた「実証ベース」なわけです。ただ彼の実証性は「論理」的なものなので、実験や調査で確かめるのとは違います。むしろ実験や調査で間違いなく確かめられることの理論的根拠を問いつめているわけです。理論も科学なのであり、その「言葉の世界」を「文芸」と揶揄すべきではないと思います。もちろん、内田さんの著作は「理論の入門者向け一般書」ですから、文芸的な面もあるでしょうが。でもそれは、アインシュタインの相対性理論の入門書にも同じようにある性質です。
igel
2006/02/20 01:04
>ただ、バートランド・ラッセルのいうことは、独我論の世界の話ですよ。

そうです。すでに述べたように、言語の檻の外には出られませんから、ラッセルや『論理哲学論考』のヴィトゲンシュタインの言うとおり、人間は誰もが独我論です。したがって、

>ある状態が、「通じ合う」なのか「通じ合った気になる」だけなのか、どうやって区別しますか?

誰も区別なんかできません。私もです。
しかし、だからといって「どうやっても無理なんだから仕方がない」ということにはなりません。独我論がダメなことは明白です。

>ディスコミュニケーションと「悪いことをする人」は関係ないということです。

ものすごく関係があります。
悪いことをするとき、人は往々にしてディスコミュニケーション状態になっているからです。他者のことを理解できていないから、他者を傷つけてしまえるのです。
igel
2006/02/20 02:29
ただし、独我論を乗り越える方法がないわけでもないと言われていて、それがいわゆる「新しい言語観」でしょう。ソシュールやマルクス以後の、あるいは『論理哲学論考』を「登りきった梯子」と言って捨てた後期のヴィトゲンシュタインの言語観です。
それを大学教授のような知識人が啓蒙するのには無理がある、という立場もあるでしょうが、実験や調査であきらかになるような言語観でもたぶんないでしょう。その程度のものならあまり苦労はしないとも言えます。地道に努力を積み重ねていけば、いつかは科学が進んでわかる日も来るのですから。
しかし本来矛盾しているような事柄、原理的に伝わるはずのないような事柄を伝えるには、「言語は情報伝達の手段である」というような古い言語観を覆すようなきわどいことをする必要も出てくるでしょう。レトリカルな文芸にしか見えないような「理論」を構築して「実証」するとか。ラカンやレヴィナスや彼らを語る内田さんというのはそういう流れにくみしているのだろうと私は思っています。うまくいくかどうかはわかりませんが。
igel
2006/02/20 02:30
igelさん、ご来訪有難うございます。コメントがだいぶ進んでしまっているのですが、Igelさんの初めのご意見を取り上げて回答したいと思います。

>「通じ合うことができる」と「通じ合った気になれる」は全然別物ではないですか?「通じ合った気になれる」という構えにおいては、情報伝達は成立していない(のでその道具もない)のではないですか?

そうですね。言語記号としての情報伝達が正確に伝わったか否かという点では両者は別物だと解釈できますね。しかし僕は、情報伝達が行われた後、受け手にどのような変化をもたらされたか(たとえ情報伝達が正確に行われていなくとも)に焦点を当てています。例えばこのコメント欄においても、全ての読者が話者の意図するところを正確に受け取っているとは限りません。読者側も「100%の理解ではないかも、でも言いたいことは分かる気がする」という理解で対話が進み得ると思います。そこでは、「拒絶状態→理解しようという意識をもって、歩み寄りの意識を持とう」という現実の変成が見られます。そういう意味での現実変成のあり方が重要だというのが僕の立場です。
somewhere else not h...
2006/02/20 05:34
また、「通じ合った気になっている」状況においても、やはり言葉は道具であると思います。例えば、バットはボールを打つ道具ですが、ボールを打てなかった(つまり、本来意図する目的を達成できなかったから「バット」ではない、ということにはなりません。つまり、道具というものは「その目的を達成したか否か」で定義が決まるのではなく、その「目的」によって定義が決まるものだと解釈しています。


>檻から出ていない状態というのは、「自分が発する言葉によって自分が誤解されているかもしれない哀しいディスコミュニケーション状態」だけではありません。「自分が発する言葉によって自分が誤解しているという愚劣なディスコミュニケーション状態」も考えられます。

そうですね。そういうディスコミュニケーション状態があることに同意します。暴力(他者への危害)等が引き起こされる様々な要因の一つにこのディスコミュニケーションがあるかと思います。
somewhere else not h...
2006/02/20 05:34
ただ僕は、全てのディスコミュニケーションが愚劣だと全面的に否定はしません。というのは「コミュニケーション=何らかの情報が伝達され、その結果受け手が変化すること」と解釈すると「ディスコミュニケーション=何らかの情報が伝達されても、受け手が変化しないこと」とも解釈できます。例えば、「私」と「他者」がそこにいて言語が媒介されても何ら受け手が変化しない場合、つまり独り言のような状態で言語が使われる場合(一種の自慰行為ですね)などが考えられると思いますが、それが全ての場合において「悪」になるとは思いません。例えば、「私」は「あなた」に愚痴を聞いて欲しい、それに対して別に何らかの方策を提示してくれなくても良い、ただ聞いてほしい、などの場合においては、それは承認されても良いのではないでしょうか。僕は、2ちゃんなどは一種の自慰行為が頻繁に行われている場所だと思っています(当然全てがそうだとは思いませんが)。ただし、igelさんのおっしゃる文脈(「私」と「他者」がいる関係において、他者への危害等が加えられる場合等)においては「愚劣」=「許されざるもの」だということに全面的に賛成します。
somewhere else not h...
2006/02/20 05:35
>われわれが「言葉」を使ってものを考えている以上は、その限界にとらわれることは避けられず、「檻の外」にはおそらく原理的に出られません。誰であろうと絶対に。それに対して、「世界を畏れる・敬うという構えの積極的価値を認める」のは、一つのソリューションかもしれません。しかし、もしそういうことができるとすれば、それは「言葉」を通じてのみではないかとも思います。それ以外にどんな方法があるでしょう?

そうですね、哀しい哉やっぱり檻の外には原理的には出られないんでしょうね。一つのソリューションとしての「世界を畏れる・敬う」価値に対しては僕も賛同します。ただ、「言葉」を通じてのみではないと思いますよ。例えば内田さんは「合気道(つまり身体)」を通してそれを学ばれているのではないでしょうか(あくまで推測ですが)。他にも、僕の好きなピアニストなども、その体験を通して内田さんと同じようなことを発言していたように(漠然とですが)記憶しています。
igelさんの言葉に対する明確な回答になっているかどうかは分かりませんが、僕の考えはこんなところです。
またいらして下さい!
somewhere else not h...
2006/02/20 05:36
ウィトゲンシュタインの論理実証主義はその後分析哲学になりましたよね。今は論理式使って論文書いている。内田さんの師匠はレヴィナスで現象学ですからそもそも内田さんの系統はウィトゲンシュタインとはあまり関係無いです。論理式使って内田さんが論文書いているなら話は別ですが。それと文芸=揶揄というのはご自身の予断では? 内田さんはブログに適当なことを書き散らす時の基本的エクスキューズとして「ネタにマジレスしないでね」という構えを使っているように感じますし、ネタだからこそ面白い詭弁を色々使えて大人気なわけです。彼のブログの価値は主にそこにある。
かとう
2006/02/20 06:45
まあ、内田さんがブログで面白いことを色々書くのは良い悪いで言えば多分「良い」ことです。そうやって言語についても啓蒙していくのはね。ただ、そのプロジェクトは多分、公教育における言語観の転換という所には繋がらないんじゃないかと私は思っていて、私は私で別の考え方を持っているというだけの話。世界を畏れる構えの会得については、管理人さんが指摘されているように、言語を通じてだけではないと私も思います。言語を持っていた方がやりやすいのは多分あるでしょうけど。
かとう
2006/02/20 07:26
おえやーす(おはようございます)。
今日の朝日新聞にウィトゲンシュタインとラッセル、載ってましたねー。
朝日の中の人、内田さんの「朝日新聞のコピーライターがウィトゲンシュタインを読んでいない」に何気に反論ってとこですね。
白片吟K氏
2006/02/20 11:32
igelさん
>(ある状態が、「通じ合う」なのか「通じ合った気になる」だけなのか)誰も区別なんかできません。私もです。
しかし、だからといって「どうやっても無理なんだから仕方がない」ということにはなりません。独我論がダメなことは明白です。

「どうやっても無理なんだから仕方がない」というのがコミュニケーションを試みることが仕方がないって意味なら、それは違いますよ。もしそうなら、ここにコメントなんかしないでしょ。
「通じ合う」なのか「通じ合った気になる」だけなのかは区別できない、というのは単なる事実です。表現をする上で、そーゆー大切な事実は無視できないというだけのことです。
「独我論がダメ」だから無視する、というには大きすぎる事実だと思いますが。
白片吟K氏
2006/02/20 11:35
あなたは「言語の檻の外には出られませんから」「人間は誰もが独我論」と言う一方で、「独我論を乗り越える方法がないわけでもないと言われていて、それがいわゆる「新しい言語観」でしょう。」と、矛盾したことを述べています。
ワタシはあなたのいう「独我論」ですが、「言語の檻の外には出られる」と言っていますよ。
ワタシから見れば、あなたのほうこそ「独我論」という言葉の響きに囚われている様に見えますが。
白片吟K氏
2006/02/20 11:37
*ディスコミュニケーションと「悪い人」について
>ものすごく関係があります。
悪いことをするとき、人は往々にしてディスコミュニケーション状態になっているからです。
「往々にして」ディスコミュニケーション状態になるから「ものすごく」関係ある、というあたりがどんぶり勘定的ですが、この辺を突き詰めると、ディスコミュニケーション状態だからおきた「悪いこと」と、コミュニケーションを取れているからおきた「悪いこと」(ex.自殺幇助、同意殺人罪) 、ディスコミュニケーション状態だから起こらないで済んだ「悪いこと」の比較になってきてめんどくさいのでもう止めたいです。
この件に関しては、ディスコミュニケーションと悪いことは「そこそこ」関係があるってことで、1つ手を打ちたいのですが。
白片吟K氏
2006/02/20 11:38
言葉のコミュニケーション以前に、前コミュニケーション的なプロセスがあると思うんですけどね。だって猫と非言語コミュニケーションできますから私。William Condonが実験で示した、会話する人間間の身体動作リズムの同調とか見ていると、人間って言語だけでコミュニケートするわけじゃないんだなあってしみじみ思いますけどねえ。内田さんは、そういう身体性の方面から見て、人間は言葉の限界を超えられるって言いたいんじゃないですか? そこについては私も全面的に同意なんですが、だから古い言語観は捨てようってアジは壁新聞に書くだけにしといた方が良いんじゃないのかなあって思うんです。
かとう
2006/02/20 12:28
>「100%の理解ではないかも、でも言いたいことは分かる気がする」という理解で対話が進み得る

「通じ合っていない。なのに通じ合った気がする」というコミュニケーションはたしかにありえます。ただし、それは「情報伝達」としてのコミュニケーション、つまり「古い言語観」の下でのコミュニケーションではもはやないことも明らかでしょう。「通じ合っている」と「通じ合っていない(通じ合った気がするだけ)」という本来相容れない状態が両立してしまっているのですから。
その状態を、「それも結局は対話なのだ!」とばかりに「通じ合う」に乱暴にもまとめてしまうと独我論になってしまいます。つまり「通じ合う」と「通じ合う気がする」の区別がつかなくなります。
「通じているのに通じていない」という矛盾したコミュニケーション状態もあることを認めるのが「新しい言語観」です。
それによって、「誤解しているはずなのになぜかわかる気がする」とか、「互いが相手を誤解だとののしり合っているのに、実は深いところで理解し合えている」などのコミュニケーションもあることが分かり合えるはずです。
igel
2006/02/20 12:53
そしてこれは、なにも難しい哲学の専門的論議なのではなく、国語や一般教養の授業の中で十分伝わること――そう、情報伝達の道具としての古い言語を通しても伝わることではないのか、とも思います。日常の具体的な場面でのちょっとした人間の機微にかかわることばかりなのですから。とはいえそれができるだけの力(専門性というよりは人間性)を持った先生がどれほどいるかはこころもとないですが。小学校から大学まで。
igel
2006/02/20 12:54
>内田さんの系統はウィトゲンシュタインとはあまり関係無いです。論理式使って内田さんが論文書いているなら話は別ですが。

論理式を使うと理論だが、使わなければ理論ではない、というようなことはもちろんありません。そして内田さんが本やブログに書かれていることはほとんど、分析哲学や現象学その他についての入門的解説です。それぞれのジャンルを専門にしていなくても、また内田さんだけでなく多くの哲学者たちが言っていることばかりです。


>世界を畏れる構えの会得については、管理人さんが指摘されているように、言語を通じてだけではない

たしかに「身体」のことを忘れていました。なるほど体育も音楽も重要です。
ただ、依然として釈然としないのは、「言語による啓蒙が公教育では言語観の転換につながらない」のだとしたら、「国語は学校で教えなくてもよい、少なくとも体育や音楽ほどには」と言っているのと同じではないか、ということです。そして公教育の「現場」での言語に対する認識がその程度のものであるのなら、「ほらやっぱり、言葉の力を軽んじていたではないか」とウチダさんに言われかねないと思います。


igel
2006/02/20 12:57
>「どうやっても無理なんだから仕方がない」というのがコミュニケーションを試みることが仕方がないって意味なら、それは違いますよ

そこで私が言いたかったのは、「原理的に独我論は避けられないのなら独我論でいけばよいではないか、ということにはならない」ということです。ですから、

>「人間は誰もが独我論」と言う一方で、「独我論を乗り越える方法がないわけでもないと、矛盾したことを述べています。

「独我論はダメだが、独我論しかダメである」という原理的矛盾を克服する問題を議論しているのでそうなります。これは別に「学者の哲学談義」の類ではありません。この世に生きている人間である以上、個々の具体的な状況の中でその問題に何らかの仕方でかかわっているのです。そのことを内田さんの本はわかりやすく説明している方だとも言えますが、別に内田さんだけが言っていることでもありません。
igel
2006/02/20 12:59
>ワタシはあなたのいう「独我論」ですが、「言語の檻の外には出られる」と言っていますよ。

檻の中にいても「檻の外に出られる」と言いつのることはできます。当然です。
そしてこの意味でまさに、独我論は世界と関係を持ちません。独我論者は世界と無関係です。

>「往々にして」ディスコミュニケーション状態になるから「ものすごく」関係ある、というあたりがどんぶり勘定的ですが

そうでした。きちんと厳密に突きつめれば、「悪いことをする人は必ずディスコミュニケーション状態にある」「ディスコミュニケーションこそが悪い」などの主張を導けると思います。めんどくさかったので端折ってしまいましたが。
igel
2006/02/20 13:00
>、「言語による啓蒙が公教育では言語観の転換につながらない」のだとしたら、「国語は学校で教えなくてもよい、少なくとも体育や音楽ほどには」と言っているのと同じではないか

 何でそういう話になるのか私にはよくわかりません。もう少し詳しくその論理展開を教えてください。また、おわかりと思いますが

>そして公教育の「現場」での言語に対する認識がその程度のものであるのなら

 それはご自分でフィールドワークをして確認されてはどうですか? 私は公教育の国語科があなたが考えているほど甘い現場だとは思いませんけれども。とりあえずこういう風に

>とはいえそれができるだけの力(専門性というよりは人間性)を持った先生がどれほどいるかはこころもとないですが。小学校から大学まで。

大した根拠もなく他人の仕事をナメてかかるのはよしなさいと私は内田さんに言いたかったわけです。そういうのは私から見れば「世界を畏れている」とは言い難いです。
かとう
2006/02/20 13:15
私が主張しているのは、まずは自分の知らない世界をナメるなということを子供達に教えようということです。そうしたら、いつか彼らが成長して言葉の恐ろしさを知った時には、言葉をナメないようにもなってくれるんじゃないかという希望的観測込みで。
かとう
2006/02/20 13:16
ところで白片吟K氏さんが「言葉の檻の外には出るべきでない」とおっしゃっているのは、言葉の檻の外には恐るべきものが待っているから、なんですよね。つまりリミッターを外して言葉本来の力を解放してしまうのは危険だと。エヴァンゲリオンが暴走してるみたいなもので。だからそのヤバさを認識した上で、敢えて外には出ないようにしようというのは、一つの洗練された言語観として成立しているように思います。プロレスラーがプロレスラーにしか本気の技をしかけないように、檻の外で言葉を暴れさすのなら、その暴走する言葉を差し向ける相手にはちゃんとその旨了解を取っておこうよって思いますね。少なくとものべつまくなしにやるべきではない。
かとう
2006/02/20 13:30
>もう少し詳しくその論理展開を教えてください。

「世界を畏れる」のが、合気道やピアノや猫とたわむれるなどの身体性を通じても伝わるものであり、しかもその方が「言葉の限界を越えられる」というのなら、「言葉」という限界あるものを教える国語という教科の重要性は必然的に低くなるのでは、ということです。
そして、「現場」を知っているらしい人の発言にそういうことを感じさせる点があったので、そう考えたわけです。

>私は公教育の国語科があなたが考えているほど甘い現場だとは思いませんけれども。

いえ、私は公教育の国語科は相当甘くない場のはずだと言っているのです。
こうして数人で言葉をやりとりしているだけでも対話にはかなり手間取ります。それが数十人の学級では、いくら国語力のある先生でもいろいろなことを言ってくる生徒全員に的確なコミュニケーションをとるのはまず物理的に不可能でしょう。「時間がかかる」というのは、言葉によるコミュニケーションの(内田=レヴィナス的な?)限界だとすら思います。だから「ナメている」のではなく、誰が先生をやっても「原理的に無理」なのではないか、と考えているのです。
igel
2006/02/20 14:24
その原理的に無理なことを、無理にもかかわらずしている、という矛盾した状況があるのではないですか?しかし、その矛盾を「それでも現場はその無理をなんとかしているんだ」と単純化してしまうと、それは独我論に陥ると思います。

このようなことは、「言葉」というそれ自体限界にとらわれたものを使って伝えるしかないのでは、というのが私の見解です。
身体的なものはその直接性ゆえに、言葉の限界を超えて伝わります。内田さんが身体性に着目するのもそのためではないかとも思いますが、私はそれには批判的です。「まず日本語を」ということで美しい文章を音読するなどと身体的なことをするよりは、ちゃんとした読解力を養う方がよいのではないかと。一般書やブログの内容をそれなりに読めてはじめて、内田さんの言いたいことも伝わるのではないかと。
igel
2006/02/20 14:25
なお、独我論者には「畏れる」と「ナメる」の区別がつきません。
自分で勝手にこわいと思うとおびえますし、勝手に勝てると思うと攻撃します。
なので、弱い者いじめをしたり、くだらないものを盲信したりします。
的確に畏れるべき者から畏怖を加えられ、畏れるに足りない者に立ち向かえればよいのですが、必ずしもそうはなりません。またそうなったとしても、それは「畏れを知る」「相手をナメない」こととは無関係です。
なぜなら、独我論は世界とは無関係だからです。たまたま世界の有り様と合致していたとしても。
igel
2006/02/20 14:33
申し遅れましたが、私は教育現場の人間ではありません。
ここでは主にクリエイターとしての立場からコメントしています。
だからigelさんと価値が違うのかも知れませんし、igelさんの独我論が私の考えと全く同じなのかどうかも分かりません。
私の考えは、教育現場で使うことは想定していないので、現場での有効性がない、とかいう意味では否定されてもいいと思います。

つか、なんかigelさんは単に「自己チューな奴って、自己完結してて他人の迷惑考えなくて、チョーめーわく」って言ってるだけのような気がするんですが。
もうそれ、言語の檻とか関係ないし。
白片吟K氏
2006/02/20 18:42
かとうさん
>リミッターを外して言葉本来の力を解放してしまうのは危険だと。エヴァンゲリオンが暴走してるみたいなもので。

エヴァンゲリオンあんま見てないからイマイチたとえが分からないんですが(すんません)、じゃ、どーゆーたとえが良いかというと、これも今のとこ思いつかないですねー。
何か見つかるかなとか思ってここで討論してるってとこはあります。

>檻の外で言葉を暴れさすのなら、その暴走する言葉を差し向ける相手にはちゃんとその旨了解を取っておこうよって思いますね。

いや、「それ」(最早言葉ですらない)を受け取れる能力を持つ人間はいないと思います。本能的にスルーしてしまいます。
ま、この辺もリクツぬきの言い切りになってしまうんですが、私の経験では、そうでした。
白片吟K氏
2006/02/20 18:43
>「それ」(最早言葉ですらない)を受け取れる能力を持つ人間はいないと思います。

いや、そうでもないんですよ。人間の認知能力って面白いもんで、完全なランダム事象にもパターンを見いだすことができるんです。例えば認知科学でいうsubjective rhythmizationという現象は、乱数発生器で発生させたパルス群でも、人間が勝手にリズムを設定して感じているというような現象です。刑事訴訟で捜査側が本来関係ない事象に統一されたものを見いだして冤罪を作るのも似たような現象だと思いますがね。
かとう
2006/02/20 20:02
ですから、その気になったら本来意味が存在しないサイケデリックな発話にでも、人は意味を見いだしうるんです。じゃなければポストモダンやカルスタの著述の意味不明な翻訳書を有り難がって読んでいる人たちの説明がつかない。ですが、そういう言葉の使い方はかなりアクロバティックで、いわば裏技です。私は裏技と表技が逆転したらあかんと思います。学校教育ではまずきちんとした文法や語彙力を育てる。その際に五感で覚えさすのも良いでしょう。学校で教えるのはそこまでで時間切れですよ。現実的にはね。内田さんの言いたいこともわかるけど、それで言語観が古いの新しいのと近代的な優劣談義に落とし込んで、「俺って頭良い(あいつら頭悪い)」みたいな情緒的なサゲに持って行くのは下品だというのが私の考えです。
かとう
2006/02/20 20:09
ところで白片吟K氏さんは法曹の世界で仕事をされているから、クリアカットな伝達を特に重視されるのでしょうか。産業分野の文書もそうですが、徹底的に誤解を排除する言語空間は確かにあるし、日本人がみな人文世界で生きるわけでも無いんだから、内田的言語観の絶対視は避けたいものですね。誤解がい
かとう
2006/02/20 20:19
かとうさん
>いや、そうでもないんですよ。人間の認知能力って面白いもんで、完全なランダム事象にもパターンを見いだすことができるんです。

あ、いやいやそーゆー意味じゃなくって。
意味が重すぎるんです。人間が受け取れない早さと重さの球を投げつけられた感じ?本能的に避けるじゃないですか、そーゆーの。
ま、「それ」にもいろいろあるから、全部がそうじゃないだろうとは思うんですが。

>法曹の世界で仕事をされているから、クリアカットな伝達を特に重視されるのでしょうか。

自分が特にクリアカットな伝達を重視してるとは思わなかったですが、どんな現場でも、それが道具として使える程度に誤解を避ける表現をする必要は出てきます。
裁判の分野は書面(メールですらない)でのやりとりが中心ですから。

かとうさんは内田さんを尊敬してるんですね。
ワタシなんて、個人の「サイバー壁新聞」(これは内田さんが自分で書いた)でお上品な言い方で情緒的で「下品な」サゲをしようと、おもしろけりゃそれでいいと思いますが。
白片吟K氏
2006/02/20 21:30
そうですねえ。レトリックの巧さには感嘆しています。昔から。ですが、尊敬というとどうかなあ。ここ一番という土壇場で裏切りそうなイメージがあって、背中は預けられないなと思いますけど。器用に生きている人で、そこは感心しますけども。特に最近は内田さんの書き物に「内田さん、それは無いだろう」と真剣に異議を申し立てる人が私みたいなチンピラだけになってしまって、論壇勝ち組サークルでナアナアの活動しかしておられないし、ご自身も真剣勝負の場には出てこなくなった(ブログへの批判はスルーするし、査読付き学会誌に投稿もしていない)。
かとう
2006/02/20 22:19
そうですねえ。レトリックの巧さには感嘆しています。昔から。ですが、尊敬というとどうかなあ。ここ一番という土壇場で裏切りそうなイメージがあって、背中は預けられないなと思いますけど。器用に生きている人で、そこは感心しますけども。特に最近は内田さんの書き物に「内田さん、それは無いだろう」と真剣に異議を申し立てる人が私みたいなチンピラだけになってしまって、論壇勝ち組サークルでナアナアの活動しかしておられないし、ご自身も真剣勝負の場には出てこなくなった(ブログへの批判はスルーするし、査読付き学会誌に投稿もしていない)。
かとう
2006/02/20 22:20
だから、昔に較べると俺様的な書き飛ばしが増えた気がします(あれだけ取り巻きにヨイショばかりされていたらしょうがないですけど)。すなわち書き物のクオリティも落ちた。ですから、もう少し品位に注意して書き物をされたら、以前のクオリティに戻るんじゃないかという期待もあって、ちょっと苦言を呈してみたわけです。内田さんは以前のが面白かったんですよ。それを知っている身からすると、今の内田さんは面白くない。「おもしろけりゃいいじゃん」が通用しないんです。うん。尊敬はしていないですね。
かとう
2006/02/20 22:27
>申し遅れましたが、私は教育現場の人間ではありません。

「教育現場の人間」であるように私が思ったのはかとうさんです。「現場」という言葉はかとうさんが(たぶん誤って)使われているものですから。誤解されたようならすみませんでした。

>なんかigelさんは単に「自己チューな奴って、自己完結してて他人の迷惑考えなくて、チョーめーわく」って言ってるだけのような気がするんですが。

たとえそう要約するとしても、依然として言語の檻の核心部分とかかわっています。「自己チュー」であるのも、「自己完結」するのも、「他人の迷惑を考えない」のも、「言葉」というもの(に限界があること)によって行われるからです。
しかし私が言っているのはむしろ、「他人の迷惑になるまいとたとえどんなに努力してたとしても、自己完結して自己チューな奴は、いつ何時チョーめーわくかけるやもしれない。しかもたぶんそのときになってもまだ自分のめーわくに気づいていないはず。」ということです。そしてその「チョーめーわくな奴」とは、私やあなた、一人一人のことだ、ということです。誰であれ、そういう「畏れ」を知るべきだとは思います。
igel
2006/02/21 01:21
>徹底的に誤解を排除する言語空間は確かにある

そんなものが「確かにある」などと「実証」されたことがありますか?
極力排除しようとしている空間ならあるでしょうが。しかし誤解の可能性を完全に排除しきれる空間などあるはずがありません。
あるとしれば、別の意味で誤解を「徹底的に排除する」=スルーしてなかったものとする(亡き者にする?)空間でしょう。
igel
2006/02/21 01:22
あのー、自己チューな奴が嫌い。みんなそうならないよーにしよーぜってだけの主張なら、1コメントで済むじゃないですか。
それ確実に言語の檻とか、ヴィトちゃんやら出す必要ない話ですよ。
白片吟K氏
2006/02/21 01:30
別のエントリーのコメントに書いたけど、表現者としては、「分からないけど面白い」と言ってもらえる状態がベストです。
igelさんのいう「通じ合っていない。なのに通じ合った気がする」状態です。
この状態は、言葉の縛りがない(だから分からない)にもかかわらず表現者の意図通りの結果が起きている(だから通じている)からです。
言葉の檻の外の空気をちょっと吸った気分、かな。
逆の「通じているのに通じていない」は、バラエティなんかで、まともなことを言ってしまって、「空気読め」とひっぱたかれるようなものです。これは表現者としては最低な気分になれます。俺1コも間違ってないのに。
確実なのが「分かるし面白い」ものです。作り方もある程度パターン化できます。
しかし、「分からないけど面白い」が表現者を引きつける魅力は大したものです。
言葉の檻の外には魅力があるのです。
白片吟K氏
2006/02/21 01:39
「独我論」と言われて、ワタシは割と素直に、あーそうかも、と思いましたが、それは檻の外の魅力は表現者側の一方的な思い入れだからです。ラッセルの言葉は「独我論」と言ったのはそういう意味です。
受け手としては、まあ、面白ければどっちでもいいだろうし、どっちでもいいなら、「分からないけど面白い」を取っていいよね。ハイリスクハイリターンは承知の上。
今まで私はそう考えていました。
「ハイリスク」の内容を甘く見ていた。今はそう思います。

意図した効果を生じない、つまり、面白くない、受けないだけがリスクの内容ではなかった。
意図した以上に伝わってしまう、と、いうことが起こる場合がある。
伝達時に言葉で枠をはめなかったためです。

それは伝わったのではなくて、勝手にあなたが伝わったと思っただけではないのですかと問われて、否定する言葉はありません。伝達の事実は証明できない。
しかし、いきなり相手の内蔵を見てしまったような恐怖は確かにその表現からもたらされたものでした。

と、ゆーわけで私は考え直そうと思い、新しい方向を探るべく、こーしてここで討論していたわけです。
白片吟K氏
2006/02/21 01:39
コメント二重投稿になってしまってますね
ごめんなさい

>いきなり相手の内蔵を見てしまったような恐怖は確かにその表現からもたらされたもの

どんな場面で経験されたんですか?
かとう
2006/02/21 08:07
>学校で教えるのはそこまでで時間切れですよ。

そうでしょう。それは「現実的に」「実証」される事柄なのだろうと、誰もが納得することです。
しかし「現場」にいない素人がそのことを確認する(その上で話を進めようとする)のは、「大した根拠もなく他人の仕事をナメてかかる」ことにほかならないと決めつけるのは、まったくもって非実証的態度だと言わざるをえません。
それこそが何でも「優劣談義」に持ち込む「下品で情緒的なサゲ」だということも言えるし、相手が畏れ敬っているのかナメているのかの区別もつかない独我論だと言うこともできるでしょう。

このようなことは私だけが言うまでもなく、もうすでにどこかで指摘されていたことだとも思いますが、「現場の実証性を訴えるその当人こそが、その発言を通して現場や実証を裏切っている。」「その現場や実証は、ニセの現場や実証である。たとえ当人が実証の現場にいようがいまいが。」といった可能性について検討してみる必要があると考えています。
igel
2006/02/21 08:46
>自己チューな奴が嫌い。みんなそうならないよーにしよーぜってだけの主張なら、

「嫌い」ではなく「ダメ」です。自分の好みの問題ではなく、他人にも妥当する「事実」です。

それから、自己チューな奴はみんなそうなろうとしてなっているのですか?そんなわかりやすすぎる自己チューならダメダメなのは当たり前なので、それこそ「そんなのやめとけ」の1コメントでおしまいです。(あるいは、それでも言うこと聞かない奴をどう処罰するかなどのささいな話が続くだけでしょう。)
しかし、誰もが「みんなそうならないよーにしよーぜ」と思っているのに、自己チューというのは往々にしてそう思っている当人がなってしまうんですよね。これはやっかいな問題でしょう。なりたくないものにならずにすむ方法が見つからないのですから。
igel
2006/02/21 08:49
>それは檻の外の魅力は表現者側の一方的な思い入れだから

その思い入れをコミュニケーションと言うのです。ディスコミュニケーションではなくて。
どうりで、議論が混乱すると思いました。やっと噛み合いましたね。
「一方的な」「思い入れ」というのは、古い言語観の下では情報伝達を阻害するディスコミュニケーションだと決めつけられてしまいますが、「思い入れの起こるはずのないところに思い入れが起こる」という矛盾を含んでいる点で、独我論を回避できる場合があります。「思い入れが起こるはずがない」と思い込んでいる独我論的認識をその独我論の檻(思い込み)の中で否定する事態だからです。
(とはいうものの、この説明はあまりよいものではないと我ながら思います。だからといってどしどし一方的に思い入れすればよい、というものでもないからです。)
igel
2006/02/21 08:52
ふと思ったんですが、他人の言葉に乗っ取られた状態の人も結構いますよねえ。例えば難しい本を読んでその中身を消化しきれていないのに、その本の言葉を使ってレポートを書いているとか何か言おうとしている人。何か言いたい欲望が噴出しているのはわかるんだけど、何が言いたいのかは誰にも(もちろん本人にも)わからない。ああいうのはちょっと困りものですよね。言葉が自分の主人であるというコンセプトの中にも、言葉とそれを発話する身体が一つの連携したシステムとして上手く機能している(身体と言葉を足した以上のものが出現している)状態と、単に身体が言葉に乗っ取られただけの状態(身体と言葉が明後日の方向を向いてくっついているので差し引きでゲインよりロスが出ている状態)があるような気がしてきましたよ。
かとう
2006/02/21 14:58
>(いきなり相手の内臓を見てしまったような恐怖は)どんな場面で経験されたんですか?

あまり書くのは気が進みません。
というのは、その場面を客観的に言えば、ごくふつーに、アホみたいな顔でテレビを見ていたときだからです。ええ、テレビです。ただの。
番組は淡淡と進行していましたので、それが問題のない表現であることは明らかで、しばらくは単なる気の迷いだと思っていました。
そうではないと確信するに至ったのは、同じことが数回起き、そのとき感じたものを何とか言葉にしようと幾つか試しているうちに、その語群に一致する言葉を、以前私自身が言われたことがあった、と気がついたからです。
白片吟K氏
2006/02/21 20:56
言われたときは全然判りませんでした。自分が否定されてるってこと以外は。
「あなたの心が直接私を傷つける」「このままでは私はあなたになってしまう。」と言われました。
言った人は普段はごく常識的な人なのに、涙眼で訴えるその言葉は、不条理派の私も引く程のわけ分らなさ。
この手の作品がけなされる場合は、通常、「分らない」「自己満足・オナニー」等の言葉が使われるのに、そのキーワードは入っていない。むしろ逆っぽい?
いや、あんたは私にならないよ。なれるわけないじゃん。

しかし、自分が受け手の側に回って、初めてわかりました。
「檻の外」のコミュニケーションとは、表現手段による縛りのないコミュニケーション、つまり、究極的には「同一人物になる」ことです。
檻の外に出ることは不可能で、人は他人になれない。
にもかかわらず、なってしまうかのような恐怖を与えることができる、のです。
そして、「同一人物になった」のか「なったと思った」だけなのかの区別はつかないのです。
伝達の事実は証明できないから。
リクツで言えばこうなりますが、まあ、一言でいえば「言葉で言えないほど怖い」のです。
白片吟K氏
2006/02/21 20:56
「分らないけど面白い」ものは、受けるかどうかがかなり風任せ人任せです。相手と風向きによって、同じ表現が面白くないと受け取られることもあるし、逆にたまさかこういうことも起きてしまう、ということでしょう。
でも、そーゆーことって、万に一つでも起こしちゃいけない、と表現者として思います。
作者の心が伝わるものが良い作品で、伝わらないものが悪い作品だとすれば、それは間違いなく良い作品です。
でも、受け手を苦しませるようなもの作るくらいなら何も作らない方がましだと心から思います。

>igelさん
多分あなたの「檻」と私の「檻」は違います。もしかしたら内田さんの「檻」と私の「檻」も違うかも知れません。
多分みんなそれぞれの抱える問題に応じた「檻」を持っているのでしょう。
私はとりあえずは自分の「檻」だけで手一杯です。
白片吟K氏
2006/02/21 20:59
>この説明はあまりよいものではないと我ながら

もう少しうまい説明の仕方を思いつきました。
「一方的な思い入れ」には2種類あって、
(a)「思い入れてもいいよね」、と一方的に思っているものへの思い入れ
(b)「思い入れられない、思い入れたくない」、と一方的に思っているものへの思い入れ
で、前者が独我論でも何の矛盾もなく、思い入れとはそんなもんだと受け入れられて安心な思い入れ、後者が独我論的にはそんな思い入れありえない(受け入れられない)、矛盾のきつい思い入れです。
しかし自分ではありえないと思っているものが一方的に現れたということは、自分ではないもの=他者と出会ったということでしょう。
そういう思い入れもある、だから矛盾を受け入れる新しい言語観に切り替える必要がある、というのは、古い言語観の持ち主でも、独我論者でなければ十分理解可能でしょう。その程度の、ある意味単純な話です。
igel
2006/02/21 21:11
>多分あなたの「檻」と私の「檻」は違います。

そうですか?「定義の問題である」という話はやっと理解できましたよ。
つまり、私がコミュニケーションと呼んでいるものをあなたがディスコミュニケーションという言葉で説明しようとしていた、というだけのことです。ディスコミュニケーションでも檻の外に出られる、それもまたコミュニケーションだ、ということでしょう?
まあたしかに、「あなたが犬と呼ぶものを私は猫と呼んでいるんだけど、猫ってかわいいよね」というペット談義をしていたようなものなので、曲折があった割には余分な曲折にすぎませんでしたが。
igel
2006/02/21 21:20
それはともかく、
実験や調査、法律文書などの体裁をしたものを「実証的根拠」だと突きつけられると、「実証の現場」をよく知らない素人はつい鵜呑みにしてしまいがちですが、その「実証的根拠」なるものが本当に実証されたものなのか、「検証」する必要があります。電子掲示板などでしばしば「ソースを示せ」などと言われるのはそのためです。
しかしさらに、たとえ「検証済みのソース」が示されていたとしても、その「ソースに基づいて掲示板やブログに書き込まれた意見」がその「ソース」同様に「実証」的なのかどうかはまだ「検証」されていません。たとえその意見が、「現場」においてはそのソースを実証的に検証した本人の意見だったりしたとしても、です。
igel
2006/02/21 21:23
「現場」に対しては実証的な人が「現場の外」に対してはそれほど実証的ではない、ということはよく起こりえます。そういう人は「現場の外」を「ナメて」いるからです。そして「現場」をよく知らない「現場の外」がそれに言い返せなかった場合、独我論的な「言語の檻」が完成することでしょう。しかしそれは、何も実証されていない、そもそもどこが「現場」なのかすらも定かではない、世界の有り様とは一切無関係な空間です。
igel
2006/02/21 21:23

>他人の言葉に乗っ取られた状態の人も結構いますよねえ。

それをどう「実証」するかです。さもないと「俺様的な書き飛ばし」になりますよ。もっとも、独我論者にできるわけがないことはもうすでに明らかですが。
igel
2006/02/21 21:24
さてここで、一連の出来事を次のように整理できると思います。

・教育の現状を「ゆとり」や「言葉の力」などと表現することには何の実証的根拠もないが、たまたまそういう記事を朝日新聞が書いてしまい、さらに内田さんが不用意な書き込みをブログにしてしまった。
・それら間違った意見に対して、「現場をナメている」と憤った独我論者がいる。
・しかし朝日新聞や内田さんの意見が間違っていることはたぶん事実だが、それと独我論者の義憤とは何の関係もない。独我論者の主張する根拠に基づいて朝日や内田さんの間違いが「実証」されるわけではない。間違っている理由は独我論的理由とは別にある。つまり、「現場をナメているから」間違ったのではない。ナメていようがいまいが何か別の理由で間違ったのだ。

以上のことを対話を重ねれば実証できると考えていましたが、実証されたも同然なので、そろそろこの場は失礼しようと思っています。どうもお騒がせしました。
igel
2006/02/21 21:25
>「あなたの心が直接私を傷つける」「このままでは私はあなたになってしまう。」と言われました。

ああ〜〜〜〜〜〜。わかるような気がします。ああいう瞬間って凹むのではなくて「こいつは何を言い出したんだ?」と思いますよね。もちろん言論の自由は保障されますし、そういう経験も人間必要だと思うんですが。

>でも、そーゆーことって、万に一つでも起こしちゃいけない

いや、時と場合をわきまえていれば、良いんじゃないでしょうか。ここから先は何が起こっても自己責任でオッケーねという合意があればね。
かとう
2006/02/21 21:37
>作者の心が伝わるものが良い作品で、伝わらないものが悪い作品だとすれば、それは間違いなく良い作品です。

いやあ、今の美学ではその基本図式(心的表象の伝達)はほぼ否定されていますね。作品というのはそれ自体が多様な読みに開かれているというのが昨今の主流です。

>でも、受け手を苦しませるようなもの作るくらいなら何も作らない方がましだと心から思います。

アートという空間内ならそれもまた一つのアートということになりますよ。アートの外で無差別にそういうことをやるのは嫌われますけど。
かとう
2006/02/21 21:43
>ああ〜〜〜〜〜〜。

これが(a)の思い入れ。もとからわかった気でいるものなので、安心して「わかるような気がします」なんて言えてしまいます。

>「こいつは何を言い出したんだ?」

これが(b)の思い入れ。わけわからないので凹むことすらできません。
しかし独我論者はそれに耐えられないので、「言論の自由」とか、何の関係もないものを持ち出して、なんとか(a)に落とし込もうとします。

>そういう経験も人間必要だと思うんですが。

ほら、なんとかして無理にでも凹もうとしています。凹んだ方が安心できるのです。新しい言語観に移行することもできたはずなのに、古いものに逆戻りです。

igel
2006/02/22 10:04
>作品というのはそれ自体が多様な読みに開かれている

という美学諸理論のどこをどう解釈したら「伝わらなくてもOK」なんて話になるのか。全然読めてない証拠です。「読み方はいろいろあるが、いくら何でもその読みはダメ」というものはあるに決まっています。

>アートという空間内ならそれもまた一つのアート

特に噴飯ものなのはこの発言ですね。よそではやってはいけないことが芸術ならOKなどと言ってるんですから。アーティストは怒った方がいいですよ。「俺たちをやっていいことと悪いことの区別もつかない奴らだと言うのか!?」と。他人の仕事をナメるにもほどがあります。
何の関係もない世界のことが伝わるはずがありません。伝えるには苦しくても対話を重ね、それでも傷ついたり傷つけたりしていく以外にないし、芸術が生まれるとすればその中からしかないのは当然ではないですか。別に芸術に限らないし、生まれないときは何も生まれませんが。
igel
2006/02/22 10:05
一事が万事この調子だから、「現場」云々の話は信用ならないのです。まさかとは思いますが、教育現場に本当にこうした独我論的風潮が蔓延していたらどうしよう、と慄然とします。
ただ、以上はこれまで私の発言を読んでくださった方には、言わずもがなの蛇足でしょう。書き込んだ直後にあまりにわかりやすすぎる具体例を見つけたので、理解の一助にと追加したまでです。くどくてすみません。
igel
2006/02/22 10:06
igelさん
かとうさんはかとうさんなりのやり方で私を慰めてくださっただけですよ。
あまりつっこまないであげて下さい。
お願いします。
白片吟K氏
2006/02/22 10:11
はい、今後はつつしみます。
ただあなたも、ほんとに真剣に考えようとされているのなら、そこで慰められてしまわない方がいいですよ。
いずれにせよ、もう一度お詫びしておきます。すみませんでした。
igel
2006/02/22 10:33
igelさん、こんにちは。とても今さらなのですが、ひとつだけ気になったことがあったので書き込みさせていただきます。「実証的」という言葉についてなのですが、今回の内田先生の件の記事は、かとうさんの指摘されたように、おそらくは朝日新聞の記事を元に、実際の中教審の報告書には当たらずに書かれたものだったことが問題だったのだろうと思います。ですので、実際の報告書を読んで知っていた人にとっては、「そういう話じゃないんだけどな」という感想があって当然のことだったのではないでしょうか。実際の報告書に当たらずに、新聞記事を元に書いたということが、「実証的」な態度ではなかった、という風に私は理解しています。
noma
2006/02/23 18:12
でもそのことは、先生の記事の信憑性を損なってしまうかもしれませんが、面白さを損なうことはありません。いつものように知的興奮を与えてくれる記事だったのですし。「○○の記事によれば」と枕をふって書かれたのだったなら良かったのに、と思います。そうすれば「それはその新聞社の偏向した解釈によるものですよ」というコメントは付くにせよ、元になるテキストから導かれる先生の闊達な説法は、それとして受け入れられたのではないかと思います。もちろん、内容に対する異論は読む人の数だけあるでしょうけれど、それはとても健全なことですよね。ともあれ、igelさんとかとうさん、白片吟K氏さんの議論はとても勉強になりました。ありがとうございました。
noma
2006/02/23 18:13
>加藤さん・白片吟K氏・igelさん・nomaさん
ご来訪有難うございます。最近仕事がちょっと多忙でして、時間が出来次第、また板を改めます。またいらして下さい!
somewhere else not h...
2006/02/24 12:10

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