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「朝日新聞って何考えてんの?」欄のコメント内容が少しずつ本筋からはズレてきた為、板を改めます。基本的には白片吟K氏の意見を受けて記す内容の為、文体を改めます。私は言語学を専門に学んだ人間ではありません。私は私教育機関で小・中学の国語講師をしていた人間であり、学問としての言語学には素人だと言えます。専門の方のご意見をお待ちしてます。また、「朝日新聞って何考えてんの?」コメント欄がそのテーマとはズレた内容で続いていることに違和を感じる方もおられるかと思いますが、これは、コメントが内田樹氏のブログ「内田樹の研究室」の2/13アップ「言葉の力」のコメント欄からこちらに流れてきた為です。そちらも読んで頂けるとより内容が鮮明になるかと思います。なお、内田さんのコメント欄で加藤さんがおっしゃっていることを、2/18にhrslclさんが内田さんのコメント欄上で非常に流麗かつ冷静な筆致でまとめておられます。この文章は質/品位ともに素晴らしい文章だと思います。 前回のコメントで話題に上っていた「言語観」をまとめなおすと以下のようになります。自分なりに(自分の文脈において)新旧の言語観をまとめてみました。なお、前コメント欄で私が書いたことと、これから書くことに若干の内容の違いが見られます。これは、自分なりにすべてを考え直し、書き直した結果、自分の立場/考えが定まってきた為です。言語観というテーマに限って言うと、基本的に内田さんに賛同する内容となりました。 【古い言語観】 言語運用の主体である「私」が自分の感情・思いを外に吐き出し、コミュニケーションをとる道具として言語を用いる。つまり、言葉は道具/手段である。(上田さんは「ソシュール以前的」「マルクス以前的」と表現しておられる) 【新しい言語観】 @何らかのコミュニケーションを言語という道具を使って行うとき、日本語を話す『私』は、当たり前だが日本という共同体内で理解される言語を話す。例えば「頭にくる」という表現を使うとき、我々は「え、何が頭にやって来たの?」という理解はしない。これはつまり、人はある言語を習得するときその言語を使用してきた共同体の全体的な世界観/世界理解の仕方を受け入れてきたことの証拠になる。裏返せば「ある人の言葉を聞けば、その育った共同体のイデオロギーや世界理解の仕方が推察できる」とも言えるだろう。例えば、「頭にくる」という表現で説明すると「日本という共同体では、怒りという感情は『頭』以外の部分からやってくるという理解の仕方をするらしい、そして日本語を話す人々は意識している/していないに関わらずそれを受け入れている」ように。そうなると、私は「あなた」の発する言語を聞いて「あなた」の人となりや世界観、世界理解の仕方、イデオロギー、さらに言えば「あなた」の育った共同体のイデオロギーや世界理解の仕方までをも判断できることになる。これが「言葉によって『あなた』が固定される」ということだと解釈できる。 A私たちは、常に「自分の中にある意思/感情」を言語という道具を意識的に用いて表現しようと努めているわけではない。次の単語が唇に浮かび、自分が何を言おうとしているのか把握していないにも関わらず、統辞的に正しいセンテンスが綴られる、つまり、無意識のレベルにおいて言語を用いることがある。ではこのとき、言語運用の主体はどこにいるのか?新しい言語観においては、それは「まさに私が今言語を運用しているという当の事実によって基礎づけられる」ことになる。強引に言い換えてしまえば、「私」が言葉の主人なのではない、むしろ「言葉」が私の主人なのだ、という一種逆説的な転換が起こるということだ。 B上記@Aをまとめると、私たちは言語を用いる際に「言語による固定化の危険性」を常に意識していないと危険だよ、ということになる。例えば、「あなた」がブログ上で特定の個人を批判する文章を書いたとする。すると、読者に「あなた=誹謗中傷するイヤな奴/日常生活でうっぷんが溜まってるんだろう」というような判断をされ、「あなた」はそのような人物として固定されることになってしまう。言い換えれば、「あなた」は「自分の思っている本当の『あなた』」として認識されるのではなく、言語を通して「あなた」の世界観/世界理解の仕方/イデオロギーを読み取られ、そのような理解で「あなた」が固定されることになる。今回の朝日新聞のコピーは、「言葉の力を恐れる」意識が見られないという点で上田さんは批判をしておられた。私は、それとは若干異なる立場(プロorアマという視点)から朝日新聞のコピーを批判したが、本質的には同一線上のものだと思う。 【私の立場】 @古い言語観について 「道具としての言葉があれば通じ合うことができる(通じ合った気になれる)」ことの意味は非常に大きいものがあり、この点で加藤さんのおっしゃる「ろう者の例」に同意します。また、教育初期(小・中学生)における言語教育は、道具としての言語をいかに自分の意識下に統率できるかが重要なテーマの一つであろうと思うので、ここから始めるべきだろうとも思います。つまり、自分の言いたいことを誤解無く相手に伝える仕方を身につけられるよう、また、学力や知力といった文化資本を正しく獲得することができるよう、各種の基礎訓練が必要だということですね。 A新しい言語観について 日常レベルにおいても、新しい言語観を意識しておくことは必要だと思いますが、特にメディアやネット等においては不可欠の言語観だと思います。例えば日常レベルにおいて、「私」は「あなた」を「言語」「振舞」「服装」「学歴」等、言語以外の様々な背景も考慮した上で判断しますが、やはり「彼女、かわいいんだけど、言葉きついんだよね」というように、「言語」は重要な判断基準のひとつとなります。それがメディアやネットを通すとどうなるか?当然、それらを通して運ばれてくる情報の多くは「言語」であり、しかもその言語を発した人間の様々な背景がさらに見えにくくなっています。「私」と「あなた」が対峙してコミュニケーションをとれない以上、判断のかなりの部分を言語に頼らざるを得ない。そうなると、「私が言葉の主人なのではない、言葉が私の主人なのだ」という事実がいよいよ現実味を帯びてくる。さらに言えば、読者は話者の言語を通して「話者の意思」「話者の存在する共同体のイデオロギー」等を理解するのであって、少なくとも話者は「言葉が自分を固定する/言葉は自分を縛る/言葉は自分を幽閉する檻である」ことを意識しておく必要がある。この言語観は特に、メディア全盛の現代、話者/情報発信者(TV局/新聞社など)の側に自戒の意味で意識されるべきことだと考えます。 【白片吟K氏の質問に対して】 @檻から出ることに何のメリットがあるのでしょうか? 上記「新しい言語観について」において記述した「言葉」=「自分を固定する/言葉は自分を縛る/自分を幽閉する檻である」という考えに基づくと、私たちは自身の発する言語によって判断され、「この人は○○な人だ」と定義されることになります。「言葉によって自分が判断される」ことを意識していない人は、「自分が発する言葉によって、自分がどう判断されるか」も同じように意識できていない。そうすると、檻から出ていない状態というのは、自分が発する言葉によって「自分が思っている本当の自分」とは違う仕方で自分が誤解されているかもしれないことに気づいていないことになります。これは哀しいディスコミュニケーション状態となるでしょう。よって、自分が檻に幽閉されていることを意識する/檻から出ようとする意識を持つことによって、より誤解のない情報伝達/コミュニケーションのあり方が生まれ得ることになります。 ただ、「別に、『コミュニケーションが健全に出来ている』と当人が幻想でも思えてさえいればそれで十分じゃん。それで幸せならいいじゃん」という考えも当然あり得ます。それは、各々が何に重きを置いているか、何に幸せの基準を置いているかの問題、広義に解釈すれば人生におけるスタンスの違いとも言え、どちらの立場もありだと思います。 A言葉の限界を自覚していなければその手のスランプは回避できるとも言えます。 その通りでしょうね。これも上記「人生におけるスタンスの違い」の問題に帰結すると思いますが、「スランプ」の定義が僕と白片吟K氏では違ったようです。僕は、言語世界で言うディスコミュニケーション状態を「スランプ」と言っていましたが、白片吟K氏は「言語による縛りから解き放たれたいのに、それが出来ないで落ち込む=スランプ」と捉えてらっしゃるようです。 【ブログ太郎さんの言葉に対して】 ブログ太郎さんは「残念なのは、内田さんの最初の投稿「言葉の力」を逸脱して、個人批判がなされている部分があることです。せっかくのすばらしいブログが、ある感情のために台無しになるかもしれません。ある部分の言葉のために、読後感に悲しさ、不快感が残りました。」と記述しておられます。私はこの意見に全面的に賛同します。 しかし、私は「悲しさ、不快感」を引き起こす発言を封じたり、または、封じようとする感情的な行動をしないつもりでいます。というのは、上記新しい言語観において記したように「言語=話者の人となりやイデオロギーを固定し、話者を判断するもの」であり、この判断は読者一人一人によって異なり得るものだからです。私はAというコメントに不快感を持つかもしれません。「あなた」はBというコメントに不快感を持つかもしれません。「彼/彼女」はCというコメントに不快感を持つかもしれません。どのように解釈するかは、結局読者の持つ「イデオロギー/背景/文脈」によってしか為されないものであり、それは永遠に一致を見ないかもしれません。しかし、内田さんが「常識の手柄」でおっしゃっているように、時間が経つ中で、ある発言が「常識的なもの」として固定していくと思います。その固定化のプロセスにおいて、そのブログの主権者たる私は恣意的な操作をしない、というのが私の立場です。つまり、私が操作してこのブログの「常識」を作り上げていくつもりはない、ということですね。何故ならば、私が今持っている意見/意思が正しいという保障は何処にも無く、「私」は未だ漂い続けている存在だからです。そのような意味において、ブログ太郎さんのような意見が書き込まれるのは非常に健全かつ当然のことだと思います。非常に有難い意見だと思います。 ということで、いろんな立場の方のご意見をお待ちしております。また、こんな内容のコメントが出来る板があれば良い、等のご意見もお待ちしております。ただ、上記で「発言を封じない」と書いたにも関わらず、早速矛盾するのですが(御免なさい)表現だけはちょっと気をつけて頂けると助かるなーというのが本音です。すみませんが、その点だけ気をつけて頂ければ、それ以外はまった制限なしです。 |
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| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|---|
檻の内外
朝日新聞のナイスなコピーのおかげで、今まで俺が訪れていたブログとは、性質の異なるブログを見る機会に恵まれた。 俺はさほど多くのブログを見ていない。基本的に法律家、時々マスコミ関係。扱うお題は時事問題中心。朝日新聞のコピーについて取り上げたブログはない。 だから、今回見たこちらのブログはなんつーか、知らない世界をかいま見たような気分だった。 管理人内田樹氏は本もたくさん出していて、俺より1周り以上年も上なのだが、ここはネットだ。知らないことにしておこうっと。 正直、なぜこんなに回りくどいも... ...続きを見る |
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
言語「を使役するorに使役される」という問題はたしかに充分に興味深いのですが、実際にはどちらの言語観も必要な局面があり、現実的なのは「どちらの立場の理屈も知っておく」ということでしょう。しかし、そういった構造主義以降の言語観をある社会の中で明示的に啓蒙していくというミッションはちょっと無理だと思います。というか知識人による大衆(あるいは民衆)の全体的啓蒙というミッションの限界は既に明らかだと思います。私が近年考えている代替的ソリューションは、言葉の問題を離れますが、「世界を畏れる・敬う」という構えの積極的価値を認めていくというものです。 |
かとう 2006/02/19 08:53 |
即ちデカルト的なコギト概念を媒介とした世界観「俺様が感じているように俺様と世界は在る」を発展解消し、(ウチダ的意味での)他者への基本的な敬意や畏れを持ち続けることの大事さを称揚していこうという考え方です。まずはそこだけで良いと思います。 |
かとう 2006/02/19 08:57 |
ニューエントリーわざわざありがとうございます。 |
白片吟K氏 2006/02/19 11:26 |
「(道具としての言葉があれば)通じ合うことができる」と「通じ合った気になれる」は、全然別物ではないですか?前者は他者のいるコミュニケーションですが、後者は他者のいない独我論です。 |
igel 2006/02/19 17:21 |
檻から出ていない状態というのは、「自分が発する言葉によって自分が誤解されているかもしれない哀しいディスコミュニケーション状態」だけではありません。「自分が発する言葉によって自分が誤解しているという愚劣なディスコミュニケーション状態」も考えられます。 |
igel 2006/02/19 17:22 |
とはいえやっかいなことに、「私たちが考えることのできないものを、私たちは考えることはできない」ということも考えねばなりません。 |
igel 2006/02/19 17:22 |
それに対して、「世界を畏れる・敬うという構えの積極的価値を認める」のは、一つのソリューションかもしれません。 |
igel 2006/02/19 17:23 |
通じ合える、あるいは通じ合った気になれるというのは、いずれも言語に対する構えの点で同じ「情報伝達の道具としての言語」であるということです。これらは独我論では成立しません。 |
かとう 2006/02/19 17:53 |
igelさん |
白片吟K氏 2006/02/19 19:25 |
>われわれが「言葉」を使ってものを考えている以上は、その限界にとらわれることは避けられず、「檻の外」にはおそらく原理的に出られません。誰であろうと絶対に。 |
白片吟K氏 2006/02/19 19:25 |
言葉が我々の限界を規定するかと問われたら、現時点で私は否と答えますけどね。認知科学や脳科学の知見を参照すると、そういう判断に傾いてしまいます。キム・ジェグォンの論文だったと思いますが、人間のコミュニケーションは全て物理現象として説明することが可能で、意味の世界はそれに付随して生起するという説を唱えた有名なものがありました。いわゆる付随説。つまり意味の世界が物理の世界に影響を与えうるかという議論で、これは内田さんのような単なる文芸とは違って実証ベースで展開されていて、意味(言葉はこちらのサブジャンル)は物理世界に影響を与えないという説も割と説得力がある。 |
かとう 2006/02/19 20:38 |
私は「言語を畏れる」とは言っていません。「言語によって畏れる」はずだ、と言っているのです。「言語は情報伝達の道具」なのでしょう? |
igel 2006/02/20 00:01 |
>仮に「通じ合うことができた」としても、それを客観的に証明する術はありません。 |
igel 2006/02/20 00:05 |
>「悪い」の定義によると思います。 |
igel 2006/02/20 00:07 |
igelさん |
白片吟K氏 2006/02/20 00:30 |
そうだ、igelさんにこちらから質問です。 |
白片吟K氏 2006/02/20 01:01 |
『論理哲学論考』のヴィトゲンシュタインも「論理実証主義」だそうですよ。実証的な論理はこの世のあらゆる真理を明らかにできるか、というような哲学論議らしいので、彼もまた「実証ベース」なわけです。ただ彼の実証性は「論理」的なものなので、実験や調査で確かめるのとは違います。むしろ実験や調査で間違いなく確かめられることの理論的根拠を問いつめているわけです。理論も科学なのであり、その「言葉の世界」を「文芸」と揶揄すべきではないと思います。もちろん、内田さんの著作は「理論の入門者向け一般書」ですから、文芸的な面もあるでしょうが。でもそれは、アインシュタインの相対性理論の入門書にも同じようにある性質です。 |
igel 2006/02/20 01:04 |
>ただ、バートランド・ラッセルのいうことは、独我論の世界の話ですよ。 |
igel 2006/02/20 02:29 |
ただし、独我論を乗り越える方法がないわけでもないと言われていて、それがいわゆる「新しい言語観」でしょう。ソシュールやマルクス以後の、あるいは『論理哲学論考』を「登りきった梯子」と言って捨てた後期のヴィトゲンシュタインの言語観です。 |
igel 2006/02/20 02:30 |
igelさん、ご来訪有難うございます。コメントがだいぶ進んでしまっているのですが、Igelさんの初めのご意見を取り上げて回答したいと思います。 |
somewhere else not h... 2006/02/20 05:34 |
また、「通じ合った気になっている」状況においても、やはり言葉は道具であると思います。例えば、バットはボールを打つ道具ですが、ボールを打てなかった(つまり、本来意図する目的を達成できなかったから「バット」ではない、ということにはなりません。つまり、道具というものは「その目的を達成したか否か」で定義が決まるのではなく、その「目的」によって定義が決まるものだと解釈しています。 |
somewhere else not h... 2006/02/20 05:34 |
ただ僕は、全てのディスコミュニケーションが愚劣だと全面的に否定はしません。というのは「コミュニケーション=何らかの情報が伝達され、その結果受け手が変化すること」と解釈すると「ディスコミュニケーション=何らかの情報が伝達されても、受け手が変化しないこと」とも解釈できます。例えば、「私」と「他者」がそこにいて言語が媒介されても何ら受け手が変化しない場合、つまり独り言のような状態で言語が使われる場合(一種の自慰行為ですね)などが考えられると思いますが、それが全ての場合において「悪」になるとは思いません。例えば、「私」は「あなた」に愚痴を聞いて欲しい、それに対して別に何らかの方策を提示してくれなくても良い、ただ聞いてほしい、などの場合においては、それは承認されても良いのではないでしょうか。僕は、2ちゃんなどは一種の自慰行為が頻繁に行われている場所だと思っています(当然全てがそうだとは思いませんが)。ただし、igelさんのおっしゃる文脈(「私」と「他者」がいる関係において、他者への危害等が加えられる場合等)においては「愚劣」=「許されざるもの」だということに全面的に賛成します。 |
somewhere else not h... 2006/02/20 05:35 |
>われわれが「言葉」を使ってものを考えている以上は、その限界にとらわれることは避けられず、「檻の外」にはおそらく原理的に出られません。誰であろうと絶対に。それに対して、「世界を畏れる・敬うという構えの積極的価値を認める」のは、一つのソリューションかもしれません。しかし、もしそういうことができるとすれば、それは「言葉」を通じてのみではないかとも思います。それ以外にどんな方法があるでしょう? |
somewhere else not h... 2006/02/20 05:36 |
ウィトゲンシュタインの論理実証主義はその後分析哲学になりましたよね。今は論理式使って論文書いている。内田さんの師匠はレヴィナスで現象学ですからそもそも内田さんの系統はウィトゲンシュタインとはあまり関係無いです。論理式使って内田さんが論文書いているなら話は別ですが。それと文芸=揶揄というのはご自身の予断では? 内田さんはブログに適当なことを書き散らす時の基本的エクスキューズとして「ネタにマジレスしないでね」という構えを使っているように感じますし、ネタだからこそ面白い詭弁を色々使えて大人気なわけです。彼のブログの価値は主にそこにある。 |
かとう 2006/02/20 06:45 |
まあ、内田さんがブログで面白いことを色々書くのは良い悪いで言えば多分「良い」ことです。そうやって言語についても啓蒙していくのはね。ただ、そのプロジェクトは多分、公教育における言語観の転換という所には繋がらないんじゃないかと私は思っていて、私は私で別の考え方を持っているというだけの話。世界を畏れる構えの会得については、管理人さんが指摘されているように、言語を通じてだけではないと私も思います。言語を持っていた方がやりやすいのは多分あるでしょうけど。 |
かとう 2006/02/20 07:26 |
おえやーす(おはようございます)。 |
白片吟K氏 2006/02/20 11:32 |
igelさん |
白片吟K氏 2006/02/20 11:35 |
あなたは「言語の檻の外には出られませんから」「人間は誰もが独我論」と言う一方で、「独我論を乗り越える方法がないわけでもないと言われていて、それがいわゆる「新しい言語観」でしょう。」と、矛盾したことを述べています。 |
白片吟K氏 2006/02/20 11:37 |
*ディスコミュニケーションと「悪い人」について |
白片吟K氏 2006/02/20 11:38 |
言葉のコミュニケーション以前に、前コミュニケーション的なプロセスがあると思うんですけどね。だって猫と非言語コミュニケーションできますから私。William Condonが実験で示した、会話する人間間の身体動作リズムの同調とか見ていると、人間って言語だけでコミュニケートするわけじゃないんだなあってしみじみ思いますけどねえ。内田さんは、そういう身体性の方面から見て、人間は言葉の限界を超えられるって言いたいんじゃないですか? そこについては私も全面的に同意なんですが、だから古い言語観は捨てようってアジは壁新聞に書くだけにしといた方が良いんじゃないのかなあって思うんです。 |
かとう 2006/02/20 12:28 |
>「100%の理解ではないかも、でも言いたいことは分かる気がする」という理解で対話が進み得る |
igel 2006/02/20 12:53 |
そしてこれは、なにも難しい哲学の専門的論議なのではなく、国語や一般教養の授業の中で十分伝わること――そう、情報伝達の道具としての古い言語を通しても伝わることではないのか、とも思います。日常の具体的な場面でのちょっとした人間の機微にかかわることばかりなのですから。とはいえそれができるだけの力(専門性というよりは人間性)を持った先生がどれほどいるかはこころもとないですが。小学校から大学まで。 |
igel 2006/02/20 12:54 |
>内田さんの系統はウィトゲンシュタインとはあまり関係無いです。論理式使って内田さんが論文書いているなら話は別ですが。 |
igel 2006/02/20 12:57 |
>「どうやっても無理なんだから仕方がない」というのがコミュニケーションを試みることが仕方がないって意味なら、それは違いますよ |
igel 2006/02/20 12:59 |
>ワタシはあなたのいう「独我論」ですが、「言語の檻の外には出られる」と言っていますよ。 |
igel 2006/02/20 13:00 |
>、「言語による啓蒙が公教育では言語観の転換につながらない」のだとしたら、「国語は学校で教えなくてもよい、少なくとも体育や音楽ほどには」と言っているのと同じではないか |
かとう 2006/02/20 13:15 |
私が主張しているのは、まずは自分の知らない世界をナメるなということを子供達に教えようということです。そうしたら、いつか彼らが成長して言葉の恐ろしさを知った時には、言葉をナメないようにもなってくれるんじゃないかという希望的観測込みで。 |
かとう 2006/02/20 13:16 |
ところで白片吟K氏さんが「言葉の檻の外には出るべきでない」とおっしゃっているのは、言葉の檻の外には恐るべきものが待っているから、なんですよね。つまりリミッターを外して言葉本来の力を解放してしまうのは危険だと。エヴァンゲリオンが暴走してるみたいなもので。だからそのヤバさを認識した上で、敢えて外には出ないようにしようというのは、一つの洗練された言語観として成立しているように思います。プロレスラーがプロレスラーにしか本気の技をしかけないように、檻の外で言葉を暴れさすのなら、その暴走する言葉を差し向ける相手にはちゃんとその旨了解を取っておこうよって思いますね。少なくとものべつまくなしにやるべきではない。 |
かとう 2006/02/20 13:30 |
>もう少し詳しくその論理展開を教えてください。 |
igel 2006/02/20 14:24 |
その原理的に無理なことを、無理にもかかわらずしている、という矛盾した状況があるのではないですか?しかし、その矛盾を「それでも現場はその無理をなんとかしているんだ」と単純化してしまうと、それは独我論に陥ると思います。 |
igel 2006/02/20 14:25 |
なお、独我論者には「畏れる」と「ナメる」の区別がつきません。 |
igel 2006/02/20 14:33 |
申し遅れましたが、私は教育現場の人間ではありません。 |
白片吟K氏 2006/02/20 18:42 |
かとうさん |
白片吟K氏 2006/02/20 18:43 |
>「それ」(最早言葉ですらない)を受け取れる能力を持つ人間はいないと思います。 |
かとう 2006/02/20 20:02 |
ですから、その気になったら本来意味が存在しないサイケデリックな発話にでも、人は意味を見いだしうるんです。じゃなければポストモダンやカルスタの著述の意味不明な翻訳書を有り難がって読んでいる人たちの説明がつかない。ですが、そういう言葉の使い方はかなりアクロバティックで、いわば裏技です。私は裏技と表技が逆転したらあかんと思います。学校教育ではまずきちんとした文法や語彙力を育てる。その際に五感で覚えさすのも良いでしょう。学校で教えるのはそこまでで時間切れですよ。現実的にはね。内田さんの言いたいこともわかるけど、それで言語観が古いの新しいのと近代的な優劣談義に落とし込んで、「俺って頭良い(あいつら頭悪い)」みたいな情緒的なサゲに持って行くのは下品だというのが私の考えです。 |
かとう 2006/02/20 20:09 |
ところで白片吟K氏さんは法曹の世界で仕事をされているから、クリアカットな伝達を特に重視されるのでしょうか。産業分野の文書もそうですが、徹底的に誤解を排除する言語空間は確かにあるし、日本人がみな人文世界で生きるわけでも無いんだから、内田的言語観の絶対視は避けたいものですね。誤解がい |
かとう 2006/02/20 20:19 |
かとうさん |
白片吟K氏 2006/02/20 21:30 |
そうですねえ。レトリックの巧さには感嘆しています。昔から。ですが、尊敬というとどうかなあ。ここ一番という土壇場で裏切りそうなイメージがあって、背中は預けられないなと思いますけど。器用に生きている人で、そこは感心しますけども。特に最近は内田さんの書き物に「内田さん、それは無いだろう」と真剣に異議を申し立てる人が私みたいなチンピラだけになってしまって、論壇勝ち組サークルでナアナアの活動しかしておられないし、ご自身も真剣勝負の場には出てこなくなった(ブログへの批判はスルーするし、査読付き学会誌に投稿もしていない)。 |
かとう 2006/02/20 22:19 |
そうですねえ。レトリックの巧さには感嘆しています。昔から。ですが、尊敬というとどうかなあ。ここ一番という土壇場で裏切りそうなイメージがあって、背中は預けられないなと思いますけど。器用に生きている人で、そこは感心しますけども。特に最近は内田さんの書き物に「内田さん、それは無いだろう」と真剣に異議を申し立てる人が私みたいなチンピラだけになってしまって、論壇勝ち組サークルでナアナアの活動しかしておられないし、ご自身も真剣勝負の場には出てこなくなった(ブログへの批判はスルーするし、査読付き学会誌に投稿もしていない)。 |
かとう 2006/02/20 22:20 |
だから、昔に較べると俺様的な書き飛ばしが増えた気がします(あれだけ取り巻きにヨイショばかりされていたらしょうがないですけど)。すなわち書き物のクオリティも落ちた。ですから、もう少し品位に注意して書き物をされたら、以前のクオリティに戻るんじゃないかという期待もあって、ちょっと苦言を呈してみたわけです。内田さんは以前のが面白かったんですよ。それを知っている身からすると、今の内田さんは面白くない。「おもしろけりゃいいじゃん」が通用しないんです。うん。尊敬はしていないですね。 |
かとう 2006/02/20 22:27 |
>申し遅れましたが、私は教育現場の人間ではありません。 |
igel 2006/02/21 01:21 |
>徹底的に誤解を排除する言語空間は確かにある |
igel 2006/02/21 01:22 |
あのー、自己チューな奴が嫌い。みんなそうならないよーにしよーぜってだけの主張なら、1コメントで済むじゃないですか。 |
白片吟K氏 2006/02/21 01:30 |
別のエントリーのコメントに書いたけど、表現者としては、「分からないけど面白い」と言ってもらえる状態がベストです。 |
白片吟K氏 2006/02/21 01:39 |
「独我論」と言われて、ワタシは割と素直に、あーそうかも、と思いましたが、それは檻の外の魅力は表現者側の一方的な思い入れだからです。ラッセルの言葉は「独我論」と言ったのはそういう意味です。 |
白片吟K氏 2006/02/21 01:39 |
コメント二重投稿になってしまってますね |
かとう 2006/02/21 08:07 |
>学校で教えるのはそこまでで時間切れですよ。 |
igel 2006/02/21 08:46 |
>自己チューな奴が嫌い。みんなそうならないよーにしよーぜってだけの主張なら、 |
igel 2006/02/21 08:49 |
>それは檻の外の魅力は表現者側の一方的な思い入れだから |
igel 2006/02/21 08:52 |
ふと思ったんですが、他人の言葉に乗っ取られた状態の人も結構いますよねえ。例えば難しい本を読んでその中身を消化しきれていないのに、その本の言葉を使ってレポートを書いているとか何か言おうとしている人。何か言いたい欲望が噴出しているのはわかるんだけど、何が言いたいのかは誰にも(もちろん本人にも)わからない。ああいうのはちょっと困りものですよね。言葉が自分の主人であるというコンセプトの中にも、言葉とそれを発話する身体が一つの連携したシステムとして上手く機能している(身体と言葉を足した以上のものが出現している)状態と、単に身体が言葉に乗っ取られただけの状態(身体と言葉が明後日の方向を向いてくっついているので差し引きでゲインよりロスが出ている状態)があるような気がしてきましたよ。 |
かとう 2006/02/21 14:58 |
>(いきなり相手の内臓を見てしまったような恐怖は)どんな場面で経験されたんですか? |
白片吟K氏 2006/02/21 20:56 |
言われたときは全然判りませんでした。自分が否定されてるってこと以外は。 |
白片吟K氏 2006/02/21 20:56 |
「分らないけど面白い」ものは、受けるかどうかがかなり風任せ人任せです。相手と風向きによって、同じ表現が面白くないと受け取られることもあるし、逆にたまさかこういうことも起きてしまう、ということでしょう。 |
白片吟K氏 2006/02/21 20:59 |
>この説明はあまりよいものではないと我ながら |
igel 2006/02/21 21:11 |
>多分あなたの「檻」と私の「檻」は違います。 |
igel 2006/02/21 21:20 |
それはともかく、 |
igel 2006/02/21 21:23 |
「現場」に対しては実証的な人が「現場の外」に対してはそれほど実証的ではない、ということはよく起こりえます。そういう人は「現場の外」を「ナメて」いるからです。そして「現場」をよく知らない「現場の外」がそれに言い返せなかった場合、独我論的な「言語の檻」が完成することでしょう。しかしそれは、何も実証されていない、そもそもどこが「現場」なのかすらも定かではない、世界の有り様とは一切無関係な空間です。 |
igel 2006/02/21 21:23 |
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igel 2006/02/21 21:24 |
さてここで、一連の出来事を次のように整理できると思います。 |
igel 2006/02/21 21:25 |
>「あなたの心が直接私を傷つける」「このままでは私はあなたになってしまう。」と言われました。 |
かとう 2006/02/21 21:37 |
>作者の心が伝わるものが良い作品で、伝わらないものが悪い作品だとすれば、それは間違いなく良い作品です。 |
かとう 2006/02/21 21:43 |
>ああ〜〜〜〜〜〜。 |
igel 2006/02/22 10:04 |
>作品というのはそれ自体が多様な読みに開かれている |
igel 2006/02/22 10:05 |
一事が万事この調子だから、「現場」云々の話は信用ならないのです。まさかとは思いますが、教育現場に本当にこうした独我論的風潮が蔓延していたらどうしよう、と慄然とします。 |
igel 2006/02/22 10:06 |
igelさん |
白片吟K氏 2006/02/22 10:11 |
はい、今後はつつしみます。 |
igel 2006/02/22 10:33 |
igelさん、こんにちは。とても今さらなのですが、ひとつだけ気になったことがあったので書き込みさせていただきます。「実証的」という言葉についてなのですが、今回の内田先生の件の記事は、かとうさんの指摘されたように、おそらくは朝日新聞の記事を元に、実際の中教審の報告書には当たらずに書かれたものだったことが問題だったのだろうと思います。ですので、実際の報告書を読んで知っていた人にとっては、「そういう話じゃないんだけどな」という感想があって当然のことだったのではないでしょうか。実際の報告書に当たらずに、新聞記事を元に書いたということが、「実証的」な態度ではなかった、という風に私は理解しています。 |
noma 2006/02/23 18:12 |
でもそのことは、先生の記事の信憑性を損なってしまうかもしれませんが、面白さを損なうことはありません。いつものように知的興奮を与えてくれる記事だったのですし。「○○の記事によれば」と枕をふって書かれたのだったなら良かったのに、と思います。そうすれば「それはその新聞社の偏向した解釈によるものですよ」というコメントは付くにせよ、元になるテキストから導かれる先生の闊達な説法は、それとして受け入れられたのではないかと思います。もちろん、内容に対する異論は読む人の数だけあるでしょうけれど、それはとても健全なことですよね。ともあれ、igelさんとかとうさん、白片吟K氏さんの議論はとても勉強になりました。ありがとうございました。 |
noma 2006/02/23 18:13 |
>加藤さん・白片吟K氏・igelさん・nomaさん |
somewhere else not h... 2006/02/24 12:10 |
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