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最近 駅のホームやCMで見かけるこれ 言葉は感情的で 残酷で ときに無力だ それでも私たちは信じている 言葉のチカラを ジャーナリスト宣言 朝日新聞 あれに違和感じてるのは 僕だけかいな と思ってネット検索をしてみたら やっぱり検索ヒット 約300件 いくつか気になったところ リンク貼らせて頂きます もし不都合の場合には お知らせください(御免なさい) http://plaza.rakuten.co.jp/norimasa1718/diary/200602010000/ http://erict.blog5.fc2.com/blog-entry-183.html http://blog.livedoor.jp/rr_aikokuhosyu/archives/50409584.html http://shiropenk.exblog.jp/ そうだよねぇ 絶対 おかしいってこれ 天下の朝日新聞が何言ってんの? まずコピーのこの部分が訳分からん 「言葉は感情的で 残酷で・・・」 言葉=感情的/残酷なわけないでしょ そんな濡れ衣着せられたら 言葉クン怒っちゃうよ 言葉自体に感情的/残酷な性質はない それを使う人間が感情的であれば 言葉も感情的に それを使う人間が残酷であれば 言葉も残酷になるのである それともなにかい? 朝日新聞はこれまでの報道を反省して 「言葉が残酷だったので ああいう間違いをおかしました 僕らはあまり悪くないと思います 表現のせいです」 って開き直ってるの? え? 何でそんな風に悪意をもって解釈するかって? 当たり前でしょ 朝日新聞は活字メディアなんだから 自分たちが発信する活字にはすべて責任を持つのが筋でしょ どうしてそんな風に スキのあるコピーを出すのか 本当に理解に苦しむ これまで散々叩かれて その挙句の宣言文が 「それでも信じている 言葉のチカラを」??? ちゃんちゃらおかしい 違うだろ 朝日新聞が言うべきことは 言葉のチカラを信じる 云々ではなくて 自分たちがが書いたり/話したりした言葉は 自分たちの目の届かないところで 様々な人を 傷つけたり 想像もしないような影響力をもつ メディアを通せば なお更のこと だから 私たちは「生きた言葉のもつ力の大きさを再認識」し 言葉に深く携わる人間として 感情的/残酷な報道に終止しないような 読者に誤解を受けないような ジャーナリストとしての自らの姿勢を再検証します じゃないの? もし このコピーを さして影響力をもたず いつも虐げられてる出版社か何かが 出すんだったら 100歩ゆずって話はわかる でもね 朝日新聞だよ 日本有数の影響力を持つメディアが そんなこと言い始めたら それって 横浜中華街のプロの料理人がいたとして そこの料理長が ある日 「ああ ごめんごめん お客さん 炒飯なんだけどね 包丁って感情的で 残酷で ときに無力だよね 材料切ろうと思ったらさ 私の指きっちゃった 包丁って怖いよね 包丁って私ニガテ だから今日の炒飯 失敗だよ これまでも何度か失敗して 包丁の欠片入り炒飯を 客に出して怒られたりしたんだけど でもね 私信じてる 包丁のチカラを 次は絶対上手に作るわ 料理人宣言 ワタシ」 って自分の責任を棚に上げて 包丁に責任転嫁してるようなもんでしょ これがプロじゃなかったら 笑い話ですむ でもね 朝日新聞さん プロなんだったら 道具使いこなして 当然なんですよ 道具の特性 危険箇所 強いところ 影響力 あらゆることに精通した上で そのときそのときで最高の仕事をする これがプロでしょ もちろんね 人間だから失敗はある でもね プロというのは 失敗したときに いかに対処するかで決まるんですよ いまさら なんつーコピーを出すんですか それじゃ ジャーナリスト宣言じゃなくって ただの素人宣言じゃないですか って ほら ある程度意図的ではあるが 上の文章 僕が感情的に書いたから 感情的で 残酷な文章になっている 言葉クンは悪くない 結局は 書いた人間の品性が問われるだけなのだ こうして また僕の品性が汚れていく・・・ 他者批判はしばらくやめます(決意表現) |
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| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|---|
建国記念日は阿含宗の星祭☆朝日新聞の宣伝読んでる暇があったら京都へ行こう!
<font size=3>朝日新聞の広告を最近よく目にする。これだ。 <font size=5 color= purple> 言葉は身勝手で、感情的で、残酷で、ときに無力だ。 それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。 ジャーナリスト宣言。朝日新聞</font> ...続きを見る |
松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG 2006/02/11 08:56 |
朝日新聞のCMが嫌い
まず最初に言っておくが、うちは朝日を取っている。朝日新聞は文化面が充実しているからだ。映画や展覧会などを見に行く場合の参考にしている。朝日は政治的にどーこーだと2ちゃんでよくネタにされているが、そーゆーことはどうでもいい。 ただ、それとは別に、この間からテレビとかでやっているキャンペーンが嫌いなのだ。 「言葉は 身勝手で(←TVCMのみ)、 感情的で、 残酷で、 ときに無力だ。 それでも 私たちは信じている、 言葉のチカラを。 ジャーナリスト宣言。朝日新聞」 CMとしては悪... ...続きを見る |
ペンギンはブログを見ない 2006/02/11 17:03 |
「ジャーナリスト宣言」っていまさら…
「ジャーナリスト宣言」ってかっこのいいコピーを売り出している某新聞。 ...続きを見る |
Daily WOW 2006/02/11 23:26 |
檻の内外
朝日新聞のナイスなコピーのおかげで、今まで俺が訪れていたブログとは、性質の異なるブログを見る機会に恵まれた。 俺はさほど多くのブログを見ていない。基本的に法律家、時々マスコミ関係。扱うお題は時事問題中心。朝日新聞のコピーについて取り上げたブログはない。 だから、今回見たこちらのブログはなんつーか、知らない世界をかいま見たような気分だった。 管理人内田樹氏は本もたくさん出していて、俺より1周り以上年も上なのだが、ここはネットだ。知らないことにしておこうっと。 正直、なぜこんなに回りくどいも... ...続きを見る |
ペンギンはブログを見ない 2006/02/19 01:44 |
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Sinemet oxycodone. 2008/07/15 08:01 |
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
「ゆとり」と「新しい学力観」の問題について、内田さんの所ではあまり本筋ではないのと、もう切りがないので、こちらで私見をば。 |
かとう 2006/02/14 16:58 |
|
かとう 2006/02/14 16:58 |
問題は、文部科学省が社会の変化の趨勢を完全に読み違えた所にあったのでしょう。社会全体がゆとりを失ったどん底の時期であり、近隣諸国とは険悪な仲になり、しかもその憎たらしい韓国がスパルタ教育で我が国を追い抜いた、という情緒的な理解もあったと思います。学習指導要領が、いわばスケープゴートにされたのです。しかし私は、適切なソリューションを構築しないままに学力観の転換を図ろうとしたことが混乱を招いたものの、アチーブメント・テストの結果だけを見る教育政策よりは、中長期的には望ましい方向性だったと思っています。 |
かとう 2006/02/14 17:05 |
加藤さん |
somewhere else not h... 2006/02/15 04:57 |
また前回の学習指導要領で文科省が「基礎の反復訓練」を望んでいたとしたら、それが周知徹底されなかったというのも問題ですよね。僕は、文科省からではなくメディアからの情報を通して「反復訓練」等に行き着いた現場が多いのではないかと推測しています。 |
somewhere else not h... 2006/02/15 04:58 |
僕は、教育は以前より望ましい方向に向かっていると思っています。文科省の発信する方針転換は、おっしゃるような解釈の仕方をすれば、筋が通っているとも思えますが、僕としては、「以前の指導要領は間違いでした」とはさすがに言えず、一種こじつけとも解釈できるような文章で発表されたようにも思えてしまいます。ただ、現場においては、より効果的な方策が見えつつあるように思っていますから、期待もしています。ただ、色々な話を聞くと、ひどい授業(学校の)があるのも事実。加藤さんの文章を拝見すると、とても情熱溢れる先生のようですから、ひとくくりにしては失礼だと思いますが、そういう先生もいるのは事実なんですよね…。(主題から逸れてしまいましたが) |
somewhere else not h... 2006/02/15 04:58 |
私は、日本の公教育というのは巨大タンカーのようなものだと思っています。10万トンに達するようなタンカーは、操船が非常に難しく、急には止まれないし曲がれないし狭い水路や浅瀬には入れません。ですが、それは日本という巨大な国家に生まれた子供達全てを載せていかなければならない制度の宿命ではないでしょうか。図体のでかさとウスノロさ、間抜けさを嘲笑してもはじまらないと思うのです。 |
かとう 2006/02/15 06:44 |
また、教育政策の方針決定は一見、中教審という偉い人からの単純なトップダウンに見えるでしょうが、実際には様々な現場の声を校長会など色々な回路から吸い上げて参考にしている部分も多いでしょう。問題は、主にソリューション構築の拙さにあるというのが私の見方です。指導要領として出来上がったものが、公示から数年の期間があるとはいえ、ソリューション丸投げで降りてくる。しかし学校の現場には労働力の余裕はありませんから、実際にはその時になって考えるしかないとなる。サボっているのは教科教育学者です。 |
かとう 2006/02/15 06:48 |
では、我々納税者はこのような状況にいかに関与すればいいのか。私は内田さんのように聞きかじりの半端な知識を根拠にして、無責任な批判をブログで書き飛ばしているばかりでは駄目だと思うのです。まずは出来るだけ客観的かつ大量の情報を得ること。そして、それに基づいた批判を行い、また可能であれば地域社会コミュニティを豊かにし、学校に協力すること。基本的な構えは、学校を自分たちの財産として豊かに保っていくということだと私は考えています。私は教員ではなく単なる一市民ですけれども、それでもそういう形で、出来る限りは建設的なことをしていきたいですね。 |
かとう 2006/02/15 07:36 |
なるほど、巨大タンカー。分かりやすい例えですね。僅かな角度の変更でも機敏に出来ない運命にある。大規模な民間会社でも大変なんでしょうね。ただ、同じことを民間主導でやってみたらどうなるんだろうという興味が僕にはあります。おっしゃる通り、ウスノロさを嘲笑しても始まらない。(僕個人は内田先生の文章からはそこまでの嘲笑は感じなかったのですが…。まぁ確かに「やっとここまで来たか」という感じでしたけどね。軽い溜息程度のものだと僕は理解してます)のであれば、相対比較してみたいなぁと思ったりします。でも無理ですね(笑)。 |
somewhere else not h... 2006/02/15 15:28 |
内田さんの物言いに私が眉をひそめたのは、内田さんが現代日本でも屈指のレトリックの使い手である(それ故、彼の言葉は畏るべき力を持っている)にも関わらず、論評の対象である教育政策やそれを担う人々の営みに対する謙虚さが感じられなかったからです。実際、内田さんは「ゆとり」を近年の教育政策の根本理念だと勘違いしておられました。少し調べてみれば、「新しい学力観」「生きる力」といった理念こそが1990年代以降の我が国の公教育を動かした一大潮流であり、「ゆとり」はその表面に浮かんだ一時的な相に過ぎなかったことはわかるはずです。 |
かとう 2006/02/15 17:37 |
自分がおそるべき力を持つ言葉の使い手であることに意識的であったならば、その言葉の力を何に向けて、どのように開放すべきかについては慎重であったはずだと私は思うのです。しかし、内田さんは自分の言語哲学を語ることに夢中になるあまり、自分の言葉の力を解放する先についてはあまり気にしなかったのではありませんか。すなわち、間違ったとはいわないまでも、日本の教育政策についてそれなりの知識を持つ人々の「常識」から判断すれば、かなり独創的な理解のもとに、教育政策を批評してしまった。あの記事を読んだ人たちの多くは、内田さんの強いレトリックの力に惑わされて、日本の教育政策立案のありように「ため息」をついたのではないかと推測します。 |
かとう 2006/02/15 17:44 |
彼の言葉にはそれだけの力がありますからね。ですから私は、「そのような恐るべき力を持つ言葉を、むやみやたらに適当な相手に向けるものではない」と意見しようと思ったのです。あなたは本当に言葉を畏れているのかと。また、私の大学での恩師の一人は、ゼミで言葉の権力性についての議論になった際に(たしかデリダの差延概念とかポストコロニアル思想に言及した時だったと思いますが)、こうおっしゃいました。「加藤君、たしかに君が言うように言葉は抑圧的だったり政治的だったりするかもしれない。だけどね、言葉というのは恵みでもあるんだよ。」 |
かとう 2006/02/15 17:51 |
その時は、先生のおっしゃる意味がはっきりとはわからなかったのですが、後にろう者と関わるようになり、ろう教育の問題に取り組むようになって、やっとその意味が理解できたような気がしています。ろう教育において当事者であるろう者たちが長年訴え続けてきたのは、「まずは私たちの言葉である手話を使って欲しい」ということでした。手話ならば私たちはお互いに通じ合えるんだと。それは手話以外では不可能なんだと。だから、彼らは多分私のような聴者が言葉に対してもっているよりも遙かに重くまた切実な願いと希望を、手話という彼らの言葉に対して持っています。「通じ合える」ということ。それを奪われかけた人々が、どれだけ切実にそれを希求するものか、ご存じでしょうか。「通じ合える」(あるいは「通じ合った気になれる」)とは、本来ならばそれだけでも他に代え難い価値がある状態だと私は思います。 |
かとう 2006/02/15 18:01 |
ですから、私は「言葉があれば通じ合うことが出来る」という、内田さんならば「古い」と評するような言語観であっても、世界の中にそれが存在し続ける為の場所を残しておいて良いと思っています。そういった方面への「ためらい」も、あの内田さんの記事にはなかったような気がしますから、その辺も私に「あなた、そんなに物事を簡単に決めつけるもんじゃないですよ」と言わせる一因になったのかもしれません。 |
かとう 2006/02/15 18:07 |
「通じ合える手段を奪われかけた人の手話=言葉は切実である」「言葉=道具であるという古い言語観を残しておいて良いのではないか」といった要約で良いでしょうか。この大意が間違っていないという前提で話を進めますが、この考え方に同意します。ただ内田先生が古い言語観を切り捨てているのかどうかが、判断できずにいます。そして、内田先生のおっしゃる、「言語は私たちを幽閉している檻である」という「新しい言語観」(構造主義からのアプローチでしょうか)も理解できる気がします。八方美人と言われそうですが(笑)僕の理解は「言葉を用いると、思いを檻の外に発せられる。また、血肉となった言葉は時に、自分の思いを超えて先に発せられ、その言葉に自分自身の思いを、そして、檻から出ていたことに気づかせられることもある。しかし同時に、発せられた言葉は自分自身を既定し、縛るものでもあり、『言語が私を幽閉する檻である』ことを意識していない人は、結局その檻から出ることはできず、内に籠もり続けることになってしまう」というものです。古い言語観と新しい言語観を両立させることは出来ないものでしょうかね。 |
somewhere else not h... 2006/02/15 23:26 |
【補足】 |
somewhere else not h... 2006/02/15 23:42 |
内田さんは、わかりやすさと勢いを優先してあの記事をまとめたんだと思います。細かい事実関係のリサーチを全くしていない(しようともしていない)ことからも、言葉は悪いですが「思いついたアイデアを書き飛ばした」記事だと思います。さすがに上手にまとめておられますから、読み物としては面白いですし、重要な問題提起も含んでいると感じますが。おそらく内田さんをリアルで捕まえて話をすれば、言葉を情報伝達のツールと捉える視点の存在価値もあっさり認められると推測します。非常に頭の良い方ですから、そういうものの価値もご存じでしょう。私がどうかと思っているのは、内田さんは自分の書き飛ばしの完成度にあまり意識的でないということです。文章が上手すぎるんですよ。そんな上手に書き飛ばしを書いてはいけないと私は思うんです。 |
かとう 2006/02/15 23:43 |
世に毒舌無責任評論は沢山ありますが、そういうものはたいがい「これは半ばネタである」というメタメッセージを含んでいる。しかし、内田さんはしばしばそういうメタメッセージさえも芸術的にメッセージにインテグレートしてしまうので、一読しただけでは無責任なネタ記事だとわからないようなものが出来てしまう。それはまずいでしょということなんです。 |
かとう 2006/02/15 23:46 |
新旧の言語観は両立できないのかという話に移りますが、私はそもそも言語観にそれが登場した時期に注目した「新旧」はあっても、新しいものが優れているということは言えないんじゃないかと思っています。全てを掬い上げる究極の一般理論などというものは不可能でしょう。社会の中で言葉が問題となる個々の局面において、それを解きほぐす為の最適な言語理解は異なってくると思います。例えば日本の現時点のろう教育を巡る議論であれば、デヴィッドソンとかデリダのような言語哲学を捏ねている場合ではなく、言語=情報の乗り物という理解で良いから、具体的な施策をどうするかの話をすべき状況ですしね。そんなところで「言葉をおそれる」立ち位置がどうのとか言い出したら、帰れと言われますよ。私なら言います。 |
かとう 2006/02/15 23:56 |
さて、ジャーナリズムの問題に注目しますと、たしかに言葉=情報の乗り物という言語理解では解決出来ない課題も沢山指摘されているでしょう。しかし、例えば大災害が発生して、マスメディアが全てダウンした状況を考えてみて下さい。きっと私たちは他者から届けられる情報を金よりも貴重なものに感じるはずです。ジャーナリズムには、それを必要としている人の所にraw dataを届けるという役割もある。いや、raw dataではなくとも、何でもいいからとにかく情報が欲しいことだってある。私はジャーナリズムで禄を食んだことは一度もありませんが、そういう役割を担っている人たちの働きは尊いものだと思っています。ジャーナリズムの根源的価値の一部には、とにかく何かを物理的に伝えるという、ヤコブソンの用語でいうcontactの役割もあるのではないか。そして、そういった役割に取り組もうという人々が、「言葉の力」を信じることで、仕事に取り組む勇気を奮い起こせるのであれば、それはそれで目出度いじゃないかと私は思います。 |
かとう 2006/02/16 00:03 |
少なくとも、あの記事に関して言えば、公教育の歴史やそれを担う人々、あるいは死線をくぐってジャーナリズムに取り組んでいるような方々への基本的な敬意(と事実関係の調査)を欠いた内田さんの物言いは、朝日のコピーと同程度には格好悪いのではないか。そんな偉そうに他人のこと言えた義理じゃないだろと。あなたほどの筆力があるのだから、もう少し控えめな筆致でも言語観についての問題提起は出来たでしょうと。その方が朝日の中の人や文部科学省の中で政策決定プロセスの中枢にいる人にも届きやすい言葉になったんじゃないのかなと。そう感じたんですね。 |
かとう 2006/02/16 00:10 |
なるほど。上でお書きになったことを上田先生の所のコメント欄の冒頭に書けば、コメント欄の論調は変わったでしょうね。上記を拝見し、納得しました。詰めていけば、数箇所同意できない点もありますが、それは感情的な部分でのことですから、ぶつけ合うべきことではないと思います。 |
somewhere else not h... 2006/02/16 15:36 |
そうでしょうね。100%の合意を求めないで、お互いの意見でわかりづらいところを確認しあっていくというスタンス、「それじゃあ、ま、こんなとこで次いきますか」という感じのスタンスが良いんじゃないかと思います。私としても、内田さんに「訂正しろ」とか「もう書くな」とか「謝れ」と言っているわけではなくて、もう少し控えめでも良かったんじゃないですかと私の感じ方を伝えたかっただけですから。「内田さん、そこに愛はあるのかい?」という感じですね。それにしても朝日新聞、これだけブログでぶっさりと切り捨てられたくせに、何事もなかったように内田さんを取材に行くというのは、何も考えていないのか。何で私が朝日なんかを擁護してやらにゃならんのだと思いました(笑)。「朝日人」のただ一人も、コメントつけなかったわけでね。それで良いのか朝日。 |
かとう 2006/02/16 17:22 |
上記の文章なら、加藤さんの意見をある程度の方に(全員とは言いませんが)ご理解頂けるかと思い、内田先生のコメント欄の方にリンクを貼らせて頂きました。事後承諾ですみません。あちらがあのままで終わるのが、何となく気持ち悪かったので。 |
somewhere else not h... 2006/02/17 03:38 |
お手数かけて申し訳ありません。私が出て行くとまた感情的になられる方がいるかなと思って静観しておりました。私自身上手く表現出来なかったのですが、要するに教育政策というのは単なるトップダウンではなく、結構下からの意見もくみ上げられて出来ていること、だからいわゆる現場の人間もこれまでの教育政策の変遷に責任無しとは言えないこと、しかしそういった愚鈍なシステムにも一定のメリットや理由はあるのであって、一概に否定してもなあ、ということです。 |
かとう 2006/02/17 06:40 |
ちなみに私、朝日新聞本体はさほど好きではありません。 |
かとう 2006/02/17 07:59 |
さっとよんで、加藤さんの言いたいことがわかってきました。 |
うーん 2006/02/17 09:43 |
ま、その辺は一つの見方、感じ方ということで流してくだされ。 |
かとう 2006/02/17 12:33 |
かとうさん、somewhere else not hereさん、はじめまして。私は内田先生のブログを時々読ませていただいている者です。そちらで貼られていたリンクからお邪魔いたしました。勝手な書き込みをお許しください。私は、かとうさんのおっしゃることに全面的に共感を覚えましたので、そのことをどうしても言いたくなってしまいました。内田先生のブログは面白くて、私もファンの一人ではあるのですが、あまりに無責任(というか「芸術的に」責任を回避する)な発言も多々見受けられるなぁと思うことがやはりあるからです。「これは床屋政談だから」と、真摯でまっとうな批判はあらかじめ封じられているようにも感じます。ネット上の軽い読み物だからそれで良い、とは、内田先生のブログの場合にはもはや言えないのではないかとも思います。まとまりませんが、とにかく、内田先生擁護のコメントが多くて、そのことのほうに私は違和感を覚えましたので、このようなコメントを付けさせていただく次第です。ただ、内田先生が実証的な話をしてもしかたがない、という理解もしています。突然の書き込み、失礼いたしました。 |
noma 2006/02/17 14:03 |
付けたしです。「内田先生が実証的な話をしてもしかたがない」というのは、「しても無駄」という意味ではなく、あのブログは「床屋政談」だからこそ(学術的・専門的な責任を取る必要がないからこそ)面白いし、そのような文体でしか表現できないことを、許されうる(この許容範囲が難しいところだと思うのですが)形態で表現しておられる場なので、そのことを否定してしまうと先生は「壁新聞」を続けることができなくなってしまう、という意味です。うまく言えなくて申し訳ありません。でもかとうさんご自身も、よくおわかりのことだと思います。ああいうスタンスの書き物に対する批判って難しいと思います。怒るほうが大人げないと言われてしまいそうだし。でも私は、かとうさんの苛立ち(のようなもの)にとにかく共感したことをどうしても言いたかったので。お邪魔いたしました。 |
noma 2006/02/17 14:10 |
たしかに内田さんに実証研究をしろといってもお門違いですよね(笑)。私、内田さんはヒクソン・グレイシーに似ているなと思います。船木や高田をやっつけて名を挙げたあとは一切試合に出ないことで彼のステータスは高いままになっていますが、あの後たとえばヒョードルとかノゲイラの挑戦を受けていたら、まず勝てなかったでしょう。内田さんも実証ベースの議論には絶対に付き合わない(そうでない議論にもつきあわないで禅問答のようなエントリで煙に巻くわけですが)ことで今のポジションをキープしていると思います。ただ、ヒクソンは挑戦を受けないかわりに自分からちょっかいも出さないわけで、ちょっかいだけは出しまくる内田さんは、ちょっとずるいかも。 |
かとう 2006/02/17 14:12 |
ただ、タツルドットコムに移行する前の内田さんはBBSでわりと真面目に議論につきあっていたんですよね・・・。各社編集者をとりまきに従えた論壇のビッグネームになってからの内田さんよりは、昔の辻説法爺の内田さんのが好きだったな。「ためらいの倫理学」が売れる前の内田さんには、たしかに「ためらい」があったと思うのですが。 |
かとう 2006/02/17 14:15 |
内田先生は、言外に、朝日ふがいないぞ、頑張れって |
朝日ファン 2006/02/17 15:04 |
そうですネ。2001年以前の内田先生のブログ、今読んでも感激します。今回の加藤さんのご意見もとても参考になりました。 |
朝日ファン 2006/02/17 15:10 |
>うーんさん、かとうさん、nomaさん、朝日ファンさん |
somewhere else not h... 2006/02/17 15:45 |
朝日ファンさん、たしかに内田さんは朝日からも色々仕事をもらっているわけで、朝日憎しとか朝日潰しの意図は全く無いと思います。それはわかるんですが、俗に言う「尻馬に乗る」人が、今の内田ブログだと結構いるかもしれない。「ああ、私が朝日のコピーに感じた違和感はそういうことだったのか!」と膝を打つわけですが、本当に「そういうこと」だったのかどうか、もう一度良く考えてみる姿勢を持てというのを内田さんはいつも(エクスキューズとして)書いておられるのですが、その教えをちゃんと守って眉に唾をつけて内田ブログを読んでいない人もいるような気配が。 |
かとう 2006/02/17 15:57 |
こんにちは、内田さんのところにもコメントを書いて加藤さんの主張が理解出来ないと書いた一人です。こちらへの乱入をお許しください。 |
burummy 2006/02/17 22:46 |
今回のあのようになった理由の一つはなぜその話題で反論をされたのかが周囲からは理解されなかったということが大きかったかなと考えています。かみ合わない議論を読む者は、その噛み合わない理由が意図的なものなのか、文脈ではなく兎に角言い様が気にくわないものなのか、あるいは誤解に基づくものなのかなどを考えながら読んでいるのではないでしょうか(少なくても自分はそうです)。あの場では、他のコメントでいくつか疑問点が指摘されても、十分に修正されずにコメントだけがのびていく。主張はあるのですが他の人への理解が感じられない、したがって感情的な話者だなーという印象だけが充満していくという感じだと思います。私が感じたのはこのようなコミュニケーションディスオーダーへの不全感です。そこででは、加藤さんの主張はもうどうでも良くなっています |
burummy 2006/02/17 22:48 |
私の知り合いのろう者もこの様なコミュニケーションディスオーダーへの不全感を述べる方が多いようです。聾者が異議申し立てに対して聴者から十分な反応が得られない。聴者の言っていることも理解出来ないこともないけれど、話の流れが無視されている(こうなると間に入る手話通訳者も気の毒です)。加藤さんにもこのような不全感があったのかもしれませんが、これは他にコメントしていた人たちも同じだったような気がします。 |
burummy 2006/02/17 22:49 |
私はあちらでの反論については選択的に回答しておりまして、話をかみ合わそうという意図が感じられない反論には一切答えませんでした。というのは、おそらくそういう反論は私が「まいった」と言うまで果てしなく私の発話意図を読み替えて、永遠に反論し続けると予想されるからです。すなわち、一部のコメントについては最初からコミュニケーションするつもりは無かったのです。おっしゃるようなディスコミュニケーション感が残る方も少なくないと思います。とはいえ、一切私のコメントに対応しない内田さんに較べれば、まだしもコミュニケーションには気を遣ったつもりですよ(笑)。 |
かとう 2006/02/17 23:03 |
具体的にどのコメントをスルーしたかは申し上げませんが、だいたいは感じていただけるはずです。私自身、今回の議論の中で、私が内田さんの記事のどこを看過できないと感じたのか、それは何故かがクリアになってきたという側面がありますが、それは的確に私のコメントの曖昧な部分を指摘された方々のおかげだと思っています。そういったコメントには可能な限りお答えしましたが、私の一連のコメントの理路を説明しうる可能な読みを自身で一通り検討した形跡が無いコメントについては、全ての理路を詳細に解説しているとあまりにも時間がかかるので、申し訳ありませんがスルーさせていただいた次第です。 |
かとう 2006/02/17 23:11 |
somewhere else not hereさま、長々と個人的見解をすいません。投稿した後にこれはやはり内田さんのblogのコメント欄に書くべきだったかなと少し後悔しています。よく読めばこちらでは少し文脈が別の方向に行っているようですね。具体的な加藤さんのアクションを期待する文でもありませんので・・あるいは加藤さんのコメント方法に限定するのではなく、本日のsomewhere else not hereさんのエントリーにコメントすべきだったか、悩みはつきません。内田さんのblogの方ではまだ悩まれている方がいるようです。言葉でコミュニケーションをすることを生物学的に付与されている(あるいは選択した)我々がずーっと悩んできた問題を再確認させる出来事でした。 |
burummy 2006/02/17 23:18 |
私が言うのもなんですが、100%すっきり解決なんてしない方が良いんじゃないですか。ワインだって造りの段階では多少の雑味があったほうが、10年20年後に豊かな味になると言います。お互い納得のいかない部分はひとまず寝かせておいて、先になっていつか「あの時のあれは、もしかしたらこういうことだったのかもしれん」と思いつく楽しみを残しておいた方が、余韻が残って良いのでは。 |
かとう 2006/02/17 23:26 |
それから、加藤さん、これは私の個人的な解釈なのですが、次の日の内田さんのエントリーはそのかかれた理由は部分的かもしれませんが、加藤さんのコメントから生じてきているものだと思います。だからどうしたということかもしれませんが外部評価からみると、そういう意見もあるかとおもいます。 |
burummy 2006/02/17 23:35 |
この問題は加藤さんの主張の文脈に違和感を感じるコメント欄の住人、主張が受け入れられない加藤さんの不全感の二つの流れが噛み合わないままに更に分岐して状況はいっそう複雑さを増していくという事態の典型例なのかなと現時点の私は思っています。そこの間には、もう理路だけでは解決出来ない問題があるかもしれません。 |
burummy 2006/02/17 23:40 |
翌日の内田さんの記事こそハズシの芸術の神髄だと思いましたよ私は。あれって要するに内田さんの朝日・中教審の読み、私の内田さん記事の読み、私のコメントへの反論の読みの妥当性の程度は、世間が決めると言っているんでしょう。内田さん、上手すぎ(笑)。 |
かとう 2006/02/18 00:08 |
話題になっている内田さんという方のブログをやっと見つけて読みました。 |
白片吟K氏 2006/02/18 02:29 |
こんなにコメントが伸びるって、すごいっすネ。どこかのコメントにもあったように、100%合意を得る、納得するってのは難しいんでしょうネ。いろいろ難しい言葉、言い回しもありますが、スクロールして楽しめました。また、ときどき来るかもしれません。somewhere else not hereさま。 |
なんかすごいっす 2006/02/18 09:51 |
内田さんも加藤さんも似てるのかな と思いました。私には、ああいう議論は出来そうにありません。言葉の力というか、言葉のあやと言ったほうが良いのかも。 |
A 2006/02/18 09:59 |
おはようございます。私は内田さんのかなり古い読者ですから、内田さんの文体や思考法からもわりと影響を受けていますよ。内田さんほど自信家ではないですが。今日も何やらおかしなことを書かれていますが、私の住んでいる土地なんか式内古社がある上に縄文時代から戦国時代まで、広い時代に渡って遺跡が出ていますが、町として開かれたのは平成です。内田さんの論法なら風水は神戸女学院より良いってことになりますねえ。 白片吟K氏がおっしゃるように、内田さんの書き物は鵜呑みにしちゃいけない毒入り珈琲だと思います。解毒剤併用で飲まないと。 |
かとう 2006/02/18 10:10 |
3回目のサインインで成功しました。 |
白片吟K氏 2006/02/18 11:08 |
一人でも多くの方が子供たちの育成に参加し、行動されることを祈っております。机上の論より行動を。 |
親 2006/02/18 11:10 |
>burummy,なんかすごいっす,A,親様 |
somewhre else not he... 2006/02/18 11:41 |
例えば野球で例えると、「バット=道具」という古い言語観はおそらく「バットでボールが打てるでしょ」っていう言語観。「バットって時に君を縛るもので、その意識を持ち続けないとスランプに陥るよ」っていう言語観はおそらくプロレベル、少なくとも野球入門者に対して強制すべき言語観ではない。ただ、双方とも見方であって、時と場合によって使い分ければ両立するものなんじゃないかと。だから、内田先生がああいう物言いをするのはプロレベルだからじゃないかと、そう思うわけです。 |
somewhere else not h... 2006/02/18 11:42 |
>親さま |
somewhere else not h... 2006/02/18 11:44 |
バットの喩えはわかりやすいですね。ただ初等・中等教育の実務に関わっておられた方なら納得されると思いますが、少なくとも小学校とか中学校段階では、言語観がどうのなんてレベルの話より前に、まずは母語力の基礎固めをしなくちゃいけないわけで、言葉の力のもっと危険な部分をコントロールするという話になるのは、早くて高校、遅ければ大学院修士課程くらいからだと思います。その辺、内田さんは発達段階の問題などを捨象してしまっているのでは。そこら辺が内田さんの最大の弱点ではないかと私は考えます。 |
かとう 2006/02/18 12:09 |
内田さんは、たしかに「言葉に語らせる」技、言霊をどこかから降ろしてくる技には長けておられますが、その技術に頼るあまり、つるつると素麺のように流れる言葉ばかり使ってものを書く癖があります。だから、一読すると面白いけど、わかりやすすぎて読み手の中に残らない。私は内田さんのあの大量の本の中で後々まで読み継がれるのは「レヴィナスと愛の現象学」「死者と他者」だけじゃないかと思ってますね。この2冊は内田さんが言霊降ろしの技に頼らないで(というかそれだけでは書き通せないで)、自分のアタマで悩み抜いて書いている感じがします。後の説教節はどれを読んでも同じことしか書いてないから、その時々の出来不出来が違うだけだよなと思います。 |
かとう 2006/02/18 12:13 |
そりゃ「プロレベル」においては「檻から出られない」=「文化資本を獲得することにも支障が出かねない」という問題意識も出るでしょう。 |
白片吟K氏 2006/02/18 12:18 |
@「義務教育は物書きのプロを養成することじゃない」の件ですが、その通りですね。ただ、内田さん(今回からニュートラルにさん付けに変更します)は、2/3のブログ「まず日本語を」で初等言語教育について言及されてますが、そこでは新しい言語観の話はせず、言語力の土台をいかにつけるかという話をされてます。 |
somewhere else not h... 2006/02/18 13:28 |
somewhere else not hereさんの問題とするスランプって、 |
白片吟K氏 2006/02/18 14:08 |
somewhere else not hereさん、こんばんは。内田さんのブログを見て、こちらにきました。よい議論をされていると思いますが、残念なのは、内田さんの最初の投稿:言葉の力 を逸脱して、個人批判がなされている部分があることです。せっかくのすばらしいブログが、ある感情のために台無しになるかもしれません。ある部分の言葉のために、読後感に悲しさ、不快感が残りました。こんなこと書くべきではないと思いつつ、やはり一言投稿させていただきます。それでは失礼いたします。 |
ブログ太郎 2006/02/18 19:38 |
>ブログ太郎様 |
somewhere else not h... 2006/02/18 20:32 |
内田さんの記事が前提としている指導要領案の内容と、文部科学省の発表したpdfの内容がどうも食い違っているような気がして気持ちわるかったんですが、やっとわかりました。内田さんがネタもとに使ったのは、朝日新聞(笑)のこの記事でした。 |
かとう 2006/02/18 21:01 |
報告書を読めばわかりますが、「言葉の力」なんてフレーズは一つも出てきません。「言葉を重視すべきだという意見が多く寄せられた」という箇所があって、それから次回の要領で強調すべきであると分科会が考えている様々な教育内容の中に、言葉に関する文言が散見されるくらい。 |
かとう 2006/02/18 21:05 |
>皆様 |
somewhere else not h... 2006/02/19 04:46 |
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